鷹の人5
だが、彼らが本気でその牙を剥いたのならば、おそらく神使サナキは、その幼き命をとっくにこの白い雪上に散らしている、とウルキは見ている。彼らの帰属意識の高さや勇猛さは一度火がついてしまえば、収まりどころは敵あるいは自分たちの殲滅しかあるまい。そういう意味でデイン人の気質は、どこかラグズに似ている所があった。そうでなくとも、国境を突破して領内に「侵入」した時点で、デイン側からは完全に敵視されているのだ。
デイン王の下には、手段を選ばず自国のみを最優先する策士が存在している。手段を選ばずとは文字通りの意味であり、決して容赦などしてはくれない。
その事に気がついていたのは、王ティバーンの他には、シグルーンにセネリオぐらいのものだろう。
セネリオは、鬼気迫る雰囲気を隠そうともしなくなった。辛辣な口調はいっそう厳しくなり、兵の中には彼を疎む者も出始めている。それでも、寝食を惜しみ、白磁の面をいっそう青白くしながらも必死に策を練り出し、指示をとばす様を見ていれば、表立った陰口を叩く者は、いなかった。
なんとなれば、デインはこれほどに追いつめられてもなお、理性を、誇りを失わず、死を恐れず、彼らが大義を持って女神の代弁者たる皇帝神使サナキに弓引く事を、厭わなかった。
神使その人を目の当たりにしようとも、畏れることも、あがめることもなく、「暁の巫女」の名を叫び、或いは己の国の栄光を信じて、迷わず攻勢に出て来た。
その兵士一人一人の目に宿るものそれが、強い信念を持つ人の理性だったことに、ウルキは背筋に寒いものを覚えてた。
「やっぱり、あのときあの参謀殿の言う通りにすべきだったんだ。俺たちや王の翼の強靭さを疑った神使は、自分で不幸を招いたな」
その結果が、ほぼ壊滅したクリミア軍に、兵力を半数以上失った神使親衛隊、そして底をつきかけている兵糧だ。ヤナフの言葉には侮蔑と後悔が含まれている。
その後の行軍に際しても、替え玉を用い、サナキ本人は魔道兵になりすます、というセネリオの提案をかの親衛隊長は却下した。というよりか、その案に関しては、替え玉の準備に関して「そのへんの村から年格好の似た子供を攫えばよい」とサラリと言ってのけたセネリオに対するサナキの反発が強かった。
きれいごとを言っている場合なのか、と尚も食い下がるセネリオを抑えたのはアイクで、アイクに釘を刺されてしまえば、セネリオはそれ以上言葉を告げる事は出来ない。
それでも、神使に向けられたセネリオの厳しく、冷徹な瞳は、見ているこちらの方がゾッとするような代物だった。
デインにおいては、暁の巫女ミカヤは、神使サナキにも匹敵するか、あるいは凌駕する求心力を持つ。
その事を、セネリオは予め全軍に告げていた。だが結局、彼の忠告は、まったく生かされなかった。
「………仕方ない、我らが従っているのは、ベグニオン帝国だ。それは、王も、納得している」
「わかってるよ。わかってるから、せめてお前相手にくらい好きなように言わせろ」
ベグニオンという帝国の、最もよからぬ体質の一つがこれだった。おかしな事にかの国は、一枚板ではない筈が、このような他国に対する態度となると、何故だか驚く程に同一の行動、思考をする。
自らが絶対的に正しく、かつ、優位であると思い込む。それは強大な版図を誇るからであり、軍事力を誇るからであり、財力を誇るからであり、何より女神の代弁者でもある神使という存在が彼らの中で絶対視されているからだ。
だが、デインもクリミアも、ベグニオン帝国より独立して久しい。ラグズ国家三国は、元よりベオクと慣れ合う事を厭う。
ベグニオン帝国は、自らの強大さを信じすぎるがあまり、実は孤立していたことを、それでも盟約があればこそ、辛うじてデインもクリミアも配下に準じていたということに気付くことは、結局このような事態となっても、なかった。
ヤナフもそれきり、おしゃべりな口を紡いだ。このよく動く口は、一度開かれれば留まる所を知らないが、逆に頑に閉じられていれば、三日も四日も沈黙を保つ事もある。
おそらく、しばらくは相棒の喧しいおしゃべりからは解放される。だが、ウルキは今回に限っては、その事に不安を覚えるのだった。
寡兵にして大軍を討つ。今のデイン軍にこれほど相応しい言葉が、あるだろうか。かつては自分たちがその寡兵であったことを思うと、尚の事ウルキは明朝よりの戦に、危機感を覚えている。そこまで計算してではないだろうが、ヤナフも漠然とその危機感を感じ取っていればこそ、この沈黙なのだ。
一見すれば皇帝軍の優位は動かない。だが、だからこそ、その奢りにより、今までも苦渋を舐めさせられたのではなかったのか。デイン側の結束を結果的に固めてしまったのは、実は自分たちの存在がしてではないのか。彼らを育ててしまったのは、他ならぬ、神使を戴き正当性は本来なら揺るぎなき、皇帝軍である我らなのではないのか。
そして、理解不能なこの不愉快な空気は、時が経てば立つ程、ウルキの思考そのものすらも圧迫してくる。なにもかも、どうでもいい。ただ、思うは明朝の決戦のことのみを。
ウルキは力なく、だが、不自然な衝動を払うべく頭をふるう。ヤナフは、ただじっと眼前の闇を見つめていた。
目眩が、突然ペレアスを襲った。とっさに卓に手をつくことで倒れる事こそ免れたが、全身の臓腑が圧迫されるような、じわじわとこみ上げる悪寒に、ペレアスは歯を食いしばりひたすら耐えた。
「陛下!」
真っ先に、短く叫びながらタウロニオが、黙ったまま側近の男がそれぞれ駆け寄るが、ペレアスは辛うじてそれを手を挙げる事で制した。
「構うな、大丈夫だ。私は、大丈夫だ。それよりも、続き、を」
だが、ペレアスが言葉を続ける事は不可能だった。
突如、理由はわからぬがこみあげてくるもの。覚えのある純粋な感情。不愉快な汗がにじむ。ペレアスは口早に古代語を紡いだ。『闇よ、去れ』その言葉の意味を聞き取ったミカヤとニケ、ラフィエル、そしてクルトナーガの表情がとっさに変じた。
ミカヤは、隣に立つサザを押しのけてペレアスに駆け寄り、身体を支えるように手を添えた。『我が光、我が祈りにて、悪しき咀よ、退きなさい!』ミカヤの澄んだ声が室内に響き渡り、彼女のてのひらが淡く光を放つ。
その光は一瞬ペレアスを包んだかと思えたが、まばゆく発光する間もなく消えた。
「ありがとう、ミカヤ。すまない。このようなこと、今まで、なかったのだが」
大丈夫だ、と言うようにペレアスは身体を起こすと、ミカヤを引き離した。側近の男はといえば、何事もなかったかのように一歩引いた位置に戻っており、タウロニオも元の場所に戻っていた。ひとり、ラフィエルだけがほっとしたように吐息をつく。
「精霊の護符、陛下が宿されている精の力は……おそらく、増しております」
「確かに。それよりもミカヤ、君は、力をそのように使っても大丈夫なのか?まだ、本調子ではないと」
「ご心配には及びません。直接的な傷の治癒を行うわけではなければ、私の身体に負担は、かかりませんから」
頷いてみせ、ミカヤもまた、彼女のあてがわれた席へと戻っていた。その様子を、サザは黙って見守っていた。