鷹の人6
喉の奥がひからびるような、それは恐怖だとネサラは思った。気圧されている。修羅場なぞ何度もくぐり抜けて来ていたが、これは格が違う。張り付きそうな舌をなんとか動かして、ネサラは努めて斜めに構えてみせた。それが、強がりであることは、おそらく見抜かれているだろうこともわかっていた。
「俺が知る限りじゃあ、あんたの国は色々とそうやって他国を蹂躙しているようだが……なぜ、キルヴァスだけを救うような真似をする」
「盗賊の王にも、他国の心配などをする余裕があるとは、驚きです」
「ふん、…てめえの都合か。まあ、いい。俺は確かにあんたの言う通りの王だ、他の国の事等、どうでもいい。あんたのその腐ったやり口を、是非この際お手本にしようかと思ったまでさ」
「あんたの『大事』な神使様はこの俺が助けてやるよ。『自由』をくれた代償にな」
地上より聞こえてくる獣の咆哮。まったくよく吼える。あれ程単純に、戦いのみを求められるガリアの兵を、ネサラは純粋に羨ましい、と一瞬思った。
「ミカヤ。休めているか」
「ニケ様……。…いえ。心が、重いのです。身体は…大丈夫なのですが」
「おや、あの、青年は?」
来訪者に、ミカヤの足元に身体を丸め仮眠していたオルグは、あえてうかがう様子も見せなかった。己の主の臭いを違えるなど、ありえない。オルグの態度は雄弁にそれを物語る。ニケもまた、側近の様子に何かを言うつもりは、ないようだった。
ミカヤの居室もまた、王同様に簡素なものだった。それでも、十分に暖をとれるようにと、毛布が一枚多く支給されている事に気がつかないミカヤではない。物資を節約する手前、灯火の光は殆どが魔道のそれによるはずが、この部屋の、漆塗りの艶が時を感じさせる机上におかれたそれは、温かなものを小部屋にもたらしている。倒れた直後である、という侍女の説明に、ただただミカヤはペレアスの思い遣りを感じるばかりだった。あれほどに、無様に負けたというのに。
「サザは、風にあたってくるとかで……あの子にも、知らぬ間に、色々と背負わせてしまっていたのかもしれません」
「望むところ、といった風ではあったがな」
「そうでしょうか」
「私の目には、そう見えた。それよりも、ラフィエルと共にここに来た事、無駄にならずに済みそうで、私は嬉しいぞ」
「……………すみません」
「謝るでない。それにしても、そなたが主は、言う程あほうではないな」
言う程、とは、この場合おそらく他国における噂のことだろう、とミカヤは思った。デイン国内で、現国王に対して不満の声が上がっている様子は、見られない。見えぬ所で何かはあるだろうが、少なくとも民衆の顔色や声を伺う限りでは、先君よりよほど彼らに慕われている。
「確かに、落ち度は致命的ではある。その事は、よもやどうにもならぬ。だがなミカヤ。私は、極限状態に陥った時こそ、その者の真価が問われると考えている」
「見上げた覚悟の持ち主だ。本当にあの者が言う通り、器ではなく、愚かな王だとするならば……おそらく、玉座を捨て逃げたのではないか?」
「全てを捨て、すべてから逃げ、どこかで野たれ死ぬ。血の誓約とはな、刻印がその国の為政者の身体に現れる。玉座から逃れてさえしまえば、少なくとも、重荷からは逃れられるゆえ、な」
「あの王は一人耐えていた。そなた達を頼れぬと、疑心暗鬼になりながらも、耐え、政を行い、方策を探っていた。…愚かといえば、愚かだ。だが、…その愚かさを、私は好ましく思うがな。そなたはどうなのだ、ミカヤ」
「私は、信じてます。最初に王に会った時から、あの方を疑う、など」
「そうか」
ミカヤは、ひとつの懸念を、吐き出したい衝動に駆られた。穏やかなラフィエルの笑みが、すぐそばにある。オルグは足元で、変わらず寝息を立てる。ニケは、黙って穏やかなまなざしで、ミカヤを見守っていた。「ラフィエルさん。ペレアス王は……おそらく、私のこと」
すべてを、だが口に出来なかった。印付である事。そっと手袋をとると、繊細な紋様のようなそれが、確かにある。昔はこれを見るのも、忌まわしい思いにかられたものだった。
「ご存知でしょう。……けれどあのお方は、ミカヤ、あなたを遠ざけた事は、ないのでしょう?」
ラフィエルは目を閉じたまま呟き、そしてミカヤの肩を抱き寄せた。触れる温もりに、ミカヤの中で、抑えていたものがこみ上げてくる。知っていた。ペレアスが一度とて、自分に向ける視線が、心が、曇らなかった事をミカヤもまた、わかっていた。
敢えてその事をペレアスが口にしなかったのは、あらぬ事を囁かれぬため、それもまたミカヤのためである。ミカヤはラフィエルに体重をあずけながら、そっと我が身を抱くように、細い腕を交差させる。ミカヤの細い銀糸の髪を、ラフィエルは優しく梳いた。
「………はい。……私……、私は………ッ」
「ベオクも変わった。ミカヤ、そなたは、自分の居場所を見つけたのだな」
「おやすみなさい。少しでも。あなたはまた、再び、あの戦場に立たねばならぬのです。それが、私たちをあなたの元へと赴かせた、貴方の主の思いにも、適いましょう……」
部屋に戻ってからも、ペレアスは寝付く事はなかった。ゆえに、様々な事を考えた。
深夜を過ぎても重苦しい空気が、肌にまとわりついてくる。刺すような冬の空気のはずが、どこか生温い。だがそれを不愉快とは感じない。
どころか、どこかで心地よい安息の場にいるような心持ちにすらなれる。
これは闇の精の気配なのだ、とペレアスは思った。
それは恐怖を忘却させ、死を厭う心をなくす。ただ、眼前のものを滅ぼす事を欲するようになる。その事に痛む心を、恐れる心はもはや微塵もない。
「ペレアス王。まだ、寝てなかったのか」
「サザか。ミカヤが、どうかしたのか?」
「いや……ミカヤは眠ってる。ハタリの女王たちもついてるし、大丈夫だ」
「そうか。それはよかった。彼女には少しでも身体を休めて欲しかったから」
では何故、とペレアスは聞かなかった。彼があえてこの部屋を訪れるのに、ミカヤ絡み以外であるというのなら、何か理由があるのだろう。最後の作戦会議の時の彼の態度も、気にはなっていた。ペレアスに対し、不審だという態度を決して崩す事がなかったこの青年が、始めて変化を見せた。
「……あんたに謝らなきゃいけないと思った」
「とりあえず、中に入るといい。廊下よりは、寒くはないだろうから」
サザは無言で従った。扉が閉まると、確かに通り抜ける風がない分、体感的には温かく感じる。
「トパックが」
サザはそこまで言い、言葉を呑み込んだ。視線をあちこちに彷徨わせ、何を言ってよいのか、迷っているようだった。
「…トパックのやつが、ただ報告だけしてくりゃいいのに、余計な事を書いて来て、…違う。トパックは、あんたを信用してた。それが、不思議だった。あいつはあの通り、何でも信じればいいとか思ってるバカだが、…俺は、あんたのことを不甲斐ない、どうしようもない王だと思ってたからな」
「だいたいは、当たってると思うよ」
「だからベグニオンに叛旗を翻す事も出来ず、元老院の言いなりになってるんだと思った。王の器なんかじゃない、と、思ってた」
「その通りだな」