鷹の人6
老将の表に、僅かに非難の色が見える。タウロニオは、ペレアスがしばらくの間まともに眠っていない事を知っていた。
「これが済んだら休む。王の祈祷は、初陣に重きを置くデインでは欠かせぬ儀礼だろう」
「それは、確かに…ですが、祭司もおりませんし、何より陛下は」
「口を閉ざせ。祭司ならば、そこにいる。将軍、貴公が偶然この場に居合わせた、ならば、最低限の形式は整っている、そうだろう」
「……王よ。我が、王よ」
タウロニオが突如身を屈め、礼の姿勢を取る。
「明日は、御身必ず私がお守り致します。この老骨に代えましても、必ず」
四駿のタウロニオ。兵士達に絶大な人気を誇り、デイン軍の高い士気を保つ要因の一つであり、王家三代に渡り、変わらぬ忠誠を誓うその姿は、将兵のみならず、街角で遊ぶ子らや、井戸端に集う女たちの口にまでのぼるほど。四駿と言えば、同様に名高いのはガウェインだったが、彼はデインを出奔して久しい。デイン人は、デインを捨てた者などどうでもよかった。それがかつての四駿と謡われた英傑であろうとも、だ。
その英傑、剛勇名高いタウロニオの、過ごして来た人生の深さを聞く者に感じさせてやまぬ声が、震えていた。
ペレアス出陣の意を直接当人から聞いたのは、兵士達がチーズと干した山羊肉を肴に火酒をその胃袋に収めている、最中だった。タウロニオは当初、それを受け入れるべきか否か、とっさの判断が出来なかった。ペレアスが戦う手段を持っている事は、知っていた。そして、何故その力を封じ、決して戦線に赴こうとせぬかも、理解していた。
戦をしているからといって政務に滞りが生じてはならない。
また、皇帝軍に対し抗戦の意を示しているとはいえ、相手は仮にも神使を総大将に戴くベグニオン正規軍でもある。その神使に対し、王が自ら手を下すような真似があってはならない。今のデインは弱小国に等しい。恭順は出来ず、さりとて逆らう訳にもいかない。だが、民の意志というものもある。
そして一般的に「呪術」などと呼称され、恐れられ忌まれ、魔道の使い手にすら遠ざけられている闇の魔道、それこそがペレアスが戦う為の手段であること。
それら全ての要素を鑑み、今の今まで、王は決して戦陣に姿を現すことは、なかった。
「その宣言は聞けない」
ペレアスの言葉に、タウロニオは弾かれたように顔をあげる。
明かりに照らし出された若き王の顔は、ひどく疲れて見えた。実年齢は、二十歳前後であるはずだ、だが、とてもではないがそれは若者の顔ではない。数えきれぬ労苦と、計り知れぬ心労、そして重ねこなしてきた政務の数を、それは物語っていた。
それでも、深い目元の奥にある深い瞳は、まさに一国の王は女神の祝福を得たるもの、という信心をタウロニオに呼び起こさせる。出会った頃から唯一変わらぬ、強い闇色の光だ。
「何故、で、ございますか」
やはり声が震える。面を上げられない。畏縮、というのとも違う。威圧感があるわけではない。だが、タウロニオは堅い鎧に覆われた己の身が、僅かに震えている事に気がついていた。
「将軍は」
ペレアスは立ち上がった。後ろ手に手を組み、ゆったりとした足取りで、こちらに向かってくる。
「何を、そこまで悔いているんだ。何を、何故」
背に、汗が生じる。冷えきった部屋だ。だが、冷たいそれは、肌着を濡らしてゆく。舌の根にいい様の無い苦いものが生じ、タウロニオはそっと奥歯を噛んだ。
神使を取り逃がした責は、己にもある。総大将という立場に、ミカヤの心身は耐えられなかった。その事を、タウロニオは勘付いていた。にも関わらず、動く事は出来なかった。どうにも、出来なかった。
真にデインの為を思うならば、よりよい献策が出来たのではないか。神使を確実に捕えられるよう、手段を講じることが出来たのではないか。
「タウロニオ将軍。私は、うまく、演じていられるか?」
何を突然言い出すのか。
見れば、ペレアスは笑みを浮かべていた。久しぶりに見る、表情だ。解放軍時代、所詮は傀儡とわかりながらも、兵たちに向けていた笑みだった。その笑みが、どれほど、義勇兵たちを鼓舞したのか、ペレアスは知るまい。ペレアスは、彼ら兵卒たちの熱意はひとえにミカヤあってのものと頑に信じていた。
「……………陛下。間違いなく、陛下は、このデインの王にあらせられまする」
見上げ、そして、深く頭を垂れる。立ち上がる事が、出来なかった。
ミカヤの不可思議な求心力は、確かに、現実に、このデイン軍を崩壊させず、異様な結束力をもっても証明されている。だが、やはりデインの王はペレアスなのだ。そしてそれを理解しているものも、おそらくペレアスが思っている以上に多くいる。
「イズカは良い、臣ではなかった。だが、あれで言う事の道理は、通っていたと思う。王たるもの、時に、酷薄な決断をせねばならないことが多い」
王とは時に断罪すべき立場でもある。情というものを理解しながらも、だが、情に流されてはいけない。それもまた、一つの真理であるのだとペレアス自身が、この一年弱のうちに導き出した結論だった。
「或いは、そのように割り切れなければ、人の上に立つ事、まかりならない。あのイズカの言った事を、間違っているとは、私は思わない」
タウロニオは何も応えなかった。臣下の礼の姿勢のまま、顔をあげる事もない。
あげられなかったのだ。
誰も考えてはいなかったのだ。ペレアスが、この青年が、一人、王という立場と、即位のあの日から戦いつづけて来ていたことを。尽力して来ているつもりだったが、一方でミカヤの事もあった。民衆に異様な人気を持つ彼女自身には他意はなく、純粋にデインという国を愛しているという事はわかったが、それに乗じて彼女を持ち上げようとする輩がいなかったわけではない。そういった者への対応も、せねばならなかった。ペレアスは捨て置けと言うが、タウロニオはどうしても、それだけは、我慢がならなかったのだ。
だがそれゆえ、ペレアスの不安も、苦悩も、察する事が出来なかったというのは、片手落ちなどという言葉では済まない、失態だ。そもそも、政治的に明るいわけでなく、帝王学なども付け焼き刃の王を、それでも強引に玉座に据えたのは、誰でもない。デインの民であり、自分たち将兵だ。悔いる想いを胸に、タウロニオは堅く瞼を閉じた。
「すまなかった。……今の言葉、忘れてくれ」
窓の外、闇を見つめたままに言うペレアスの言葉に、タウロニオは黙って、頷いた。
一瞬垣間見えた、主君の弱さだった。だが、それで、この胸の奥に頑に守りつづけて来た忠誠が揺らぐ、などということはない。変わらない。いや、そのような弱さを持っているペレアスだからこそ、タウロニオはこの命に賭しても守らねばならぬと思った。
人の弱きを知り、弱者の理を知る王だからこそ、このデインは変われるのだ。タウロニオだけではない。そう思う将兵が、いかほど多いのか。この王に、知らせてやりたいと思う。
「もう夜も遅い。充分に休むんだ」
静かな声でつげるそれは、穏やかな瞳であれば、有無を言わせないものを含む。伝えたきものがあるならば、明日の戦を生き延びよ。そういう事を、言外に言っている。タウロニオは観念した。