鷹の人6
老将が退出する背中を見届けるや否や、ペレアスは窓辺に立ち、一度窓を叩き、わずかに窓を開放した。とたんに吹き込んでくる風とともに、地上よりくぐもった音が聞こえてくる。その足音は、雪上であるがゆえ、流石に聞き取る事は出来ない。
窓を閉じる事も忘れ、ペレアスはその場に,崩れ落ちるようにずるずると座り込む。
左腕をはだけ、申し訳程度の灯火に照らし出される、禍々しい刻印をしばらく見つめたのち、そのまま天を仰ぐように顔をあげ、左手でその顔を覆うとペレアスは重い息を、肚の底にためていた言葉と共に、吐き出した。
「何人殺した。何人僕は、殺した、そしてこれから、何人、殺すんだ」
答えるものなどはいない。静寂とわびしい風の音。まるで、昔を思い出すかのような暗闇の安息。
矢は、放たれた。
部屋の中の空気も、冷たく澄んでいた。
唐突に目を覚ましたペレアスは、慌てて上半身を起こす。寝入ってしまった。暖炉に火が入っている。半刻も眠ったのだろうか。ふと見れば、部屋の隅には、見慣れた長身がある。浅黒い肌と、短く刈り込まれた髪、細い目と鼻筋。元ベグニオン駐屯軍所属の、そのテリウスにおいてはいささか異質な外見からいわれのない差別を受けつづけて来た青年。側近にとりたててより、常に王の側近く、その身を守りつづけて来た男だ。
「君が…入り込んだことも気がつけなかったか……こんな、時に」
「陛下」
青年の口調が、珍しく咎める響きを帯びた。気がつけなくてよいのだ。
自分は、元より堅気の人間ではない。疲労に眠りこけた素人に気がつかれるわけがない。もっともペレアスは、堅気というほどに安穏とした半生を送って来てはいない、ということも知っていたが、自負もあった。何より主君に安眠を覚えさせないということは、それだけ側近くあるものに力がない、という言い方も出来る。
「…すまない。何か、報告は」
「いえ。何も」
男は己の浅慮を恥じながら、それをおくびにも出さぬよう務めた。だが、言葉が途切れた。
「何も、ございません」
「…………そうか」
部下の葛藤を知ってか知らずか。ペレアスは考え込むように窓の外に視線を送りながら、顎に手を当てた。
とたん、側近の顔が動き、主君に異変を知らせる。何事かとペレアスが目を凝らし神経を尖らせれば、薄闇の中、遠く、金属の音が聞こえたような気がした。窓枠を叩く音が、変じる。風ではない。
「入れ」
ペレアスは命じ、寝台から身体を起こすと上着を羽織った。出陣の支度を、しなければならないだろう。側近の青年が先んじて支度を手伝う事はない。王族らしからぬその主君の振舞いは、結局直る事はなかった、とどこか諦めるような思いが去来するも、それを表に出す事はなかった。
窓を開け、風とともに入り込んで来た男は口早に皇帝軍の陣営に動きあり、どうやら本営は相当に混乱を来している、とのこと。男は口早に告げた。
奇襲部隊の生還について、使者は何も言わなかった。
「判った。ご苦労、引き続き頼む」
使者は命を受け、音もなく去った。その命が何であるか、男も知っていた。混乱を助長し、騒ぎを大きくすることだった。彼は報告の為に一時帰還しただけなのだ。
指揮杖を取ると同時に、何かを思い立ったそぶりで、ペレアスは一枚の羊皮紙を手にすると、それを折りたたみ、丁寧に封をした。書の封に使われる鑞を固める印が、王印であることに、側近の男は顔色を変えた。
「陛下……」
綴じた羊皮紙を机の棚に丁寧にしまい込むと、ペレアスは反論を許さぬと言わんばかりに、低い声で口早に呟いた。
「このこと、誰にも言うな。ただ、何事も全てが思い通りにいくなどと、そのような傲慢な考え方は、出来ないだけだ」
「わかっております」
「万一の場合はミカヤを立てよと、神殿と「草」には含んである。これは私の名においての命令だ。わかってくれ。彼女ならば、巧くゆく」
「わかって、おります。ですから命に替えても陛下をお守りせよと言われておりますし、そのつもりです」
男は顔を伏せたままに、珍しく言葉の端に焦りを滲ませていた。この男が、ネヴァサの有力な商工ギルドと繋がりを持っている事は既に知っている。彼の意志はひいてはかのギルドの意志でもある。
ペレアスは笑みをつくり、男の肩に触れた。男はたまらず顔をあげる。その表情が、あまりにも不安さを隠しきれない少年に見え、ペレアスは笑みのまま一度、頷いてみせた。
「ならば良い」
男と入れ違いに入って来たタウロニオは、使者に目配せをした。使者は頷くと、来たときと同じように、すきま風とともに、姿をくらました。タウロニオが窓を閉める。
「では王。予定通りに」
窓を閉め、タウロニオが敬礼する。ペレアスは頷いた。
「頼む。私も支度をしてすぐに向かおう。キルヴァス王が参戦するとは思えないが…動向には気を配っておくよう、伝えよ」
タウロニオが退出すると、ペレアスは指揮杖を手に、皇帝軍本陣の方角を向き瞑目し、深く頭を垂れた。
「その身に祖霊のみ元への道を示されん事を。我が祖国の英雄にして偉大なる王ヘンギストと、すべての母、大地の母、女神アスタルテの御名に願う。その身に安らぎあらんことを。その身に、導きあらんことを。その身、久しく、そしてその血に連なる子らへ、再び道を示さんことを」
祈りを切る。彼らは総勢九名。鴉王の妨害があるとは、流石に予想外だった。だが、ここで焦りを見せる訳にはいかない。 割り切る、と決意をした。それでも、胸の奥に凝るわだかまりが消える事などはない。一生自分はこれを抱えて生きるのだ。その事を、だが、重荷とは思わない。国のため、そう言い切る事で、自らをも騙しつづけ、民を欺きつづけた事。それも、罪などとは考えない。真に断罪されるその時にこそ、全ての判断を、民に任せよう。だからその為には、死ぬ訳にはいかない。
戦いは、始まった。
東の空から視線を外した。
行かねばならない。立ち上がったとたん、目眩を覚え、よろめいた。身体は正直なのか。それでも、とっさに壁によりかかり、脚に力を込める事で、倒れ音をたてるような真似はせずに済んだ。
それでも頭の中は、恐ろしく冴えていた。これから全軍を前に、何をどのようにすればよいのか。どのような言葉を選べば良いのか。どのようにすれば、兵士達を鼓舞し、死地に向かわせる事が出来るのか。
それはあまりにも明瞭に、ペレアスの脳裏に次々と浮かんでくる。
立ち上がると、もう一度だけ、窓より外を伺う。室内の灯に照らし出され、窓に映る己の顔は、まったく酷いものだった。飢餓で死にかけている老人ではないか。
「だがお前はデイン王だ。神殿より聖別されし、二百余年の歴史を作るデイン王家に連なる存在だ。デイン王ペレアス、お前は決して、退く事も、死すことも、許されない。それが、お前の、償いだ」
自らにそう告げる。