楽園
死に損なったか。
意識が浮上すると同時に、思ったのはそんなことだった。三成は目蓋を閉じたまま無意識に自分の身体の違和感を探る。どこか浮遊しているような感覚はおそらく痛み止めの所為だろう。密かに手で探った先で、胴を覆った包帯を認めて生きていることを思い知る。
「……起きているんだろう、三成」
地を這うほど低い声が聞こえたと同時に、三成は目蓋を開いた。
眼の前に広がっているのは三成に宛がわれている居室の天井だ。時刻はどうやら夜半らしく周囲は静まり返り、燈台の灯が揺らいでいた。そのちらつく灯火を背後に、枕元に座した家康が、眼を開けた三成を見下ろしていた。
その顔は、さほど多くはないが見たことがあった。遠い昔に。
激しい怒りを孕んだ顔だ。
「……何だ、言いたいことがありそうだな」
しかし三成は動じずに、熱で乾いて小さく痛む喉から掠れた声を捻りだす。それを耳にした家康はさらに表情を険しくすると、無言で床へ拳を叩きつけた。撃ちつけられた空気が風となって三成の髪を揺らす。三成は横目でそれを見つめ、迸る怒気にひりつく膚を意識しながらも退かなかった。
「あの男はどうした」
三成は淡々と問う。
それが意味するところを悟り、家康もまた腕を戻しながら押し殺した低い声で返す。
「生きている。……自害を図ったが、間に合った」
「そうか……」
死に損ないが二人か。
そう返した三成に、家康はとうとう堪え切れずに叫んだ。
「三成、なぜあんな、自分を捨てるような真似をした!お前が、煽らなければ……!」
今は邸内に蟄居させている男は、三成を撃った後に緩慢な動きでふらふらと視線を彷徨わせた。そして視界に家康を捉えた途端、流れる様な動作で短筒を己へ向けた。家康が駆け出して短筒を打ち飛ばすのが少しでも遅ければ、男は過たずこめかみを撃ち抜いていたに違いなかった。
信頼のおける大事な部下だった。
だがそうして命を拾ったとて、もうこれまでと同じ働きをすることは叶うまい。
「殺されてやるはずが、あの男は復讐すら遂げられずに半端に終わった。……失っただけだ。哀れなものだな」
「三成……ッ!」
嘲るような言葉に対し怒りに燃え上がる、煌々とした眼を見つめ返した三成は何をいまさらと言うように首を傾げた。
「だから、殺せと言った。貴様が妙な慈悲を振りかざした所為でこのざまだ。あの日に、私を打ち殺して、総て終わらせてしまえば良かったのだ。そうすれば貴様は忍ぶ必要もなく堂々と長曾我部を訪い、あの男は貴様のためにと身を粉にして働き続」
家康の掌が三成の口を塞いだ。
三成は抗わず、ただ眼を眇めて己を覗き込む男を見つめる。
それ以上聞くのが耐え難いという顔をした男は、怒りと哀しみをない交ぜにした声音で囁いた。
「お前が、総てに眼を瞑りワシを殺せる瞬間はあの時だけだった……」
昼に告げた言葉を繰り返しながら、唇を噛む。
「……ワシもそうだ。あの時だけだった。ワシはもう、お前を殺せない」
三成が憎み続けた仇の首よりも自身への断罪を選んだあの時、同時に家康は棄てたはずの道を選んだ。
三成が家康の命を狙う限り存在しなかったはずの道だ。家康は泰平の世を阻むものを生かすわけにはいかない。そして三成は生きている限り、家康の首を追い求めるはずだった。それを曲げ、細い道を繋げたのは一人の男だ。
意図したものではなかったろう。だが。
刑部。
三成を生かしたのはお前の策だ。お前の策が三成に強要した罪が、三成を絶対の断罪者から人間へと引き戻した。
家康は押しつけていた掌を離し、絞り出すように告げる。
「ワシはお前に生きていてほしいんだ。……そこにいてほしいんだ。三成」
凶を撒き散らした姿を眼にしておきながら、聡明な家臣をひとり失ったと知りながら。
誰もが罪を負うのなら、貴様の業はどこまで深い。
「また似たようなことが起こる」
三成はわかりきったことを告げた。要らぬ火種だ。この男も、長曾我部も、わかっていながら三成を生かそうとする。
「止めてみせる」
「無駄だ」
「無駄じゃない」
「愚か者め」
「いかないでくれ」
「裏切者め」
「此処にいてくれ」
三成はふと無言になって、噛み合わない言葉を返す男を見上げる。家康は眉を寄せた苦しげな顔を晒して三成の真上へ乗り出すと、視線を落として勝手な言葉を吐いた。
「……三成、お前、あんな風に簡単に、投げ出さないでくれよ……」
その声音は幾度か耳にしたことがあった。遠く、――遠く。
三成は知っている。
おそらくは眼の前の男が他に見せない顔を、声を、葛藤を、苦悩を、それを呼び起こした者だからこそ誰よりも見ていたことを今の三成は知っている。長曾我部は家康の泣き言など聞いたことがないと笑っていた。三成は違う。遠いあの日々にいつも、いつだって家康は三成を諌め、宥めようとする態度の裏で縋る色を込めて三成を見た。
かつてこの顔を目の当たりにし、この声を聞いた時、三成はそれを迷いなく切り捨てていた。なぜならそこには彼の神がいた。鋼の精神と強靭な肉体を持つ、崇高なるあの方が。その傍らには常に神の右腕たる秀麗な立ち姿の軍師がいた。三成が見るべきものはその二つだけで良かった。
涼やかに緩やかに笑うあの方が、秘密を告げるように耳打ちした声を覚えている。
三成君、きみ、近頃秀吉の左腕と呼ばれているんだよ。
告げられた思いもよらない言葉に驚き、あまりの畏れ多さに動揺した三成に笑みを零し、柔らかい声が囁く。僕が右で君が左だ。よく出来ている、ねえ、三成君。軍師は微笑んだ。
君は秀吉のために、この時へ生まれてくれたんだね……。
生の肯定を、祝福を、三成に初めて与えたのはあの二人だった。
なぜ、投げ出してはいけない。
どうして、この男だけを眼の前にして今、自分は。
唐突に感情が噴き出して三成の中に渦巻いた。
「なぜ」
三成は荒れ狂う己の叫びに翻弄され、引き摺られていく。
「なぜ私だけがここにいるのだ」
悲痛な声で小さく鋭く叫んだ三成は、耐えきれずに自らの腕で両眼を覆った。
「―――秀吉様、」
悲鳴が続く。無駄と知りながら闇雲に手を伸ばして呼ぶような声が、封じていた名を呼んだ。
「半兵衛様。なぜ。なぜ」
震える喉がとうとうその名を口にした。
「刑部……!」
「三、成」
家康もまた名を呼ぶ。三成は眼を隠したまま首を振った。
「刑部」
三成は喘ぐようにその名を呼んだ。
我は、此処に。
そう答えた男はもう傍にいない。
「行くな。私の元を、去る、な……!」
言えなかった言葉を、
吐き出すようにして口にした三成は、それきり息が途絶えたように動かなかった。
去れ、とばかり言われていた自分を遠く思い出し、家康はきつく目蓋を閉じた。それでも今ここにある自分に、たったひとつ譲れぬものがあったのだと思い知らされる。
「三成……!」
そして名を呼ぶ以外にできることなどありはしない。すまない、と零しそうになり、必死で唇を噛んで押し留めた。あの頃三成が確かに家康へと向けていた信と情を裏切ったことではない、秀吉を討ったことではない。
手を放してやれなくてすまない。