楽園
誰も彼もが三成を生かそうとする。恐怖に近い感情すら覚えた。その首を刎ね飛ばしてやるはずだった相手ですらがそんな戯言を口にするのだ。焦燥と共に駆けた三成は、辿り着いた館で一直線に国主の部屋を目指した。
普段は礼儀に煩い三成が、元親の居室の障子を声もかけずにいきなり開け放つ。
「長曾我部、いい加減私を殺せ!」
叫びながら戻ってきた男を振り返り、からくりの設計図を床に広げて気楽に待っていた元親は眼を丸くした。そしてすぐにその頬を緩める。
「おお、久々に聞いたぜあんたのそういう声!家康と遣り合ったか?」
いかにも呑気に笑う男を前に、三成は己のこめかみのあたりが引き攣るのを感じた。
歯軋りをしながら室内に踏み入り、男を見下ろし低い怒声を絞り出す。
「貴様……ッ!自分の置かれた状況をわかっているのか!万が一この地であの男の身が損なわれるようなことがあれば、責は貴様に課せられ軍が押し寄せるのだぞ!」
「そうだな。それがわかっててさらには俺に忠告までするあんたが何か問題起こすとは思えねえが。家康もすぐ戻ってくんだろ?」
三成は事もなげに言い放つ男に対して言葉に詰まったが、やがて自信なさげに顔を伏せた。
「私が、……あれを前にしていつまでも正気を保っていられると思うな」
掴まれた痕跡を厭うように、自らの腕に爪を立てる。それが深く食い込む様子を眼にした元親は、軽くその腕を引いて己の傍に座らせた。そして頭に手を置き、そのまま家康にしたようにがしがしと掻き回せば、やめろと言いながら元親の腕をはね退けようとする。
「ああ、すまねえな。あんたが心配でよ」
さらりと言われて、三成は思わず絶句した。
「ちょいとここらで荒療治でもしてみっかと、な」
「……殺せば済む話だろう。私を匿うなど百害あって一利なしの愚かな行為だ」
「そうかもしれねえなあ」
元親が緩く同意すると、三成はやや安堵したような顔をする。
「貴様が手を下す必要もない、貴様が止めないならば、私はすぐにもこの首を」
「そこまでだ、石田。……野郎共の分まで生きろと、俺は言ったはずだぜ。あんたが償うつもりだってェなら、何より先に俺の言葉を聞いておけよ」
すぐさま否定され、三成は唇を閉じた。そして沈黙の後、小さく呟いた。
「誰も彼もが、許し過ぎる」
元親は、何もかもを許さなかった男を見つめ返す。三成は真剣な顔で元親を見上げ、問い掛けた。
「貴様は何かを裏切ったことがあるか、長曾我部」
「あるな。俺について来いっつっときながら、守ってやれなかった」
一瞬息を呑んだ後、三成は唇を噛んで首を振った。
「それは、違う。……貴様の罪では」
「あんただけのせいでもねえさ。……確かにあんたが大将だった、なら傍にいた男の動向くらい見抜く必要はあったかもな。
だがすべてを見通すなんざそうそうできるもんじゃあねえだろうよ。それにあんたの責一つ、あんたの命一つで背負い切れるほど野郎共の命は軽かねえぜ」
ただ一人の償いで済むものなどありはしないのだと言い切った鬼の眼を前に、三成は自らの首を差し出すように言葉を紡ぎ続ける。
「だがそれでも、……罪は罪だ」
「……なあ。何にも背負わないまま生きていくなんて夢みてえな話じゃねえか。できもしねえから皆それを目指すんだろうよ」
言いながら元親は、自分がこれから口にすることをふと意識して苦い笑みを零した。記憶に刻まれた冷たくも整った容貌が、元親に対しそれ見たことかと嘲笑を浮かべる。四国の壊滅を思い起こす限り、忘れないと誓った部下のことを思い返す限り、その記憶には絶えずその面影が付き纏う――そしてそれを振り払わずに、こうして口にすることを選ぶ。
忘れる、はずが。
あんたは正しい。
元親は脳裏に閃く細い影に囁きながら、眼の前の男に静かに語り出した。
「毛利と俺は腐れ縁でよ。この海を挟んで何度もやり合ったし、そのたびに短い嘘くせえ停戦したりな。俺はそれに飽き飽きしてたが、……一方で少しばかり油断してた。いつのまにか馴れ合いって奴に頼っちまってた。考えてみりゃあいつはずっと、そんなものは認めねえって、正直に言ってやがったんだ。嘘ばっかで計算尽くで厄介な男だったが、俺に対する悪態は大概本気だったんだな…。あれはだから、俺の怠慢が招いたことでもある。
俺はあいつは気に食わなかったし今だって許せやしねえが、 虚しい奴だったとも思ってる。同情の余地もねえがそう思わずにはいられねえ。あいつは多分最後まで、人を信じるってことが全くわからねえままだった。……知ってりゃあ、変わったもんも、あったろうによ。
なあ石田、あんたは違うんだろ。信じた奴がいるんだろう?」
頷くことは躊躇われた。だが三成が信じた者、それが誰を指しているのかなど元親もわかった上で言っているに違いない。己を陥れた相手への情を、なぜ三成に与えようとするのか。
眼の前の男も、あの男も。
「信じておけよ。あんたにはきっと、それがいい」
「貴様を、か」
そう答えれば、元親は困り顔で笑みを零した。
「それもいいけどよ、もっと他のもんもひっくるめてな。――あんたの信じたいもんを信じりゃそれでいいじゃねえか、なあ」
「裏切られてもか」
子供のように稚く問いかける。
だが男は断言した。
「裏切られてもだ」
例えそれでも手の中に残るものはあるはずだぜと、自分が裏切った男が晴れやかに笑う。
「三成は戻っているか?」
遅れて戻って来た家康が元親の元を訪ね、開口一番に尋ねれば、
「惜しい。今もう一回出てったぜ」
からりと笑う元親が「もうすぐ来るってわかってたんだろうなあ、お前の避けられっぷりはすげえ」とまるで軽いことのように笑うから、家康もつられて笑ってしまう。つい数カ月前までは命の取り合いをしていたことを考えれば、やはり今の状況はそれよりもずいぶん穏やかだ。例え首を絞められ砂をかけられようが。
「どんな様子で帰った?」
「悪くなかったぜ」
元親は眼を細めて答える。
「ずーっと溜まってたもんにやっと手が届いた、そんな感じだ……」
「そうか」
家康は少し安心したように呟いた。
「遣り合ったんだろ?」
「ん。……まあな」
「こう言っちゃなんだけどよ、気ィつけろよ」
遅れての忠告に、家康は元親を見つめ返した。それに対し、元親はひらりと打ち消すように片手を振る。
「いや、そういう意味じゃねえよ。逆だ。あいつはもうお前にどうこうできるような状態じゃねえ……、ただな。やっぱ不安定にはなっちまってるから」
「ああ」
家康は深く頷いた。元親は溜息をついて笑う。
「ったく、それにしてもせっかく治まってたもんを簡単に揺さぶってくれやがるなァ、お前は」
それを狙ったくせにと笑みを返した家康は、不意にその笑みを静かな表情へと変えた。
「……ワシは欲が深いな。元親よ」
その事実が辛いようで、……嬉しいのだ。
ぽつりと呟いた家康に、そんなんいまさらだろうがよと元親は返した。家康が四国襲撃の誤解を解いた日、元親を前に三成を語ったあの時から、そんな捩じれた感情は承知済みだ。平然と言う元親に、やはり家康は笑うしかなかった。