楽園
三成は館の裏から繋がる林地の小路を歩いている。
例えば風が潮を孕んで香ることを、空の青を映した海の幾重にも透き通る紺碧を、崩壊した日々を建て直しながら笑顔を交わす人々を、その笑みが何の屈託もなく己にも向けられることを。
認めないまま此処にいることはひどく難しい。かつて、家康に口煩く言われたものがこれなのだとしたら三成はいまさら手に入れてしまった。総てを失ったはずが違う何かを得ていたなどと、奴の好みそうなふざけた話だ。
木立を抜ければ視界が開け、海を見下ろせる丘に辿り着く。緩やかな斜面を下れば海際へと進むこともできるが、三成はそのまま丘の端へ立ち尽くした。眼下に広がる海岸にいつか押し寄せたであろう軍勢を、剣戟の響きを、鬨の声と悲鳴を、これほどに穏やかな海が赤く黒く染まったであろう日を思い描く。その軍勢を影から操った手は、爛れた膚を隠すために包帯を巻いている――。
ふざけた話だ、……そう思うだろう。心の内で呼びかけた三成は、唇が開くに任せる。
「……貴様は私を裏切ったのだろうか」
口をついて出た言葉が、無意識に疑問の形に成り果てたことに小さく嗤う。
家康が来ると聞いた、その瞬間にわかっていた。今の三成には家康の嘯く総てを切り捨てるほどの確固たる礎はない。信念もない。会えば侵蝕されるだけだと知っていた。こうして容易く暴かれ、無様に揺れている。
総ては義のため、ぬしのためよ。
時に静かに染み入らせるように、時に薄く笑いながら幾度も告げた男を、疑ったことなど一度もなかった。あの男だけが裏切りに切り刻まれた己の傍らでその傷痕を見据え、嘆いてみせた。
あの男だけが、心を預けた相手総てに置いていかれた三成が手にした唯一のものだったのだ。
名を、呼ぼうかと唇を開き、結局は閉じる。
その響きまでもが変容していたとしたら、あまり聞きたいものではない。
三成は変わり果てた自身を自覚していた。これほどに臆病で見苦しく、家康にすら慈悲を向けられ諭される醜態を晒すならば、かつての自分はとっくにこの首を掻き切っていたはずだ。だが長曾我部がそれを許さない。三成にその資格はなく、なれば三成は無様に自分を継ぎ接ぎして息を続けるしかない。
三成は視線を遠く投げたまま、潮風に身を晒し、目蓋の裏で翻る包帯を纏った手の緩やかな動きに、耳の奥で静かに響く掠れた声音に気付かないふりをして佇み続けた。
だが、不意に三成の神経を何かが引っ掻いた。
思考するよりも早く反射的に腰に手をやるが、そこに刀はない。静かな情景に突如ひびが走ったような不穏さを敏感に感じ取り、用心深く視線を走らせた三成はその場を離れるために身を翻し――同時に何かが破裂する音が、空気を震わせた。
痛みではなく熱が奔った。
衝撃に姿勢を崩し地面へ倒れ込んだ三成は、右脚を抱え込んで低く呻いた。鳴り響いたのは銃声だ。脹脛の外側を鉛玉に貫かれた。こそげた肉の断面から流れる血で、強く押さえた掌も袴もみるみる赤く濡れていく。まず脚を奪った狙撃に、逃すまいとする明確な殺意が込められている。
曲者――だが一体何者か。賊が出るという話は聞いていない。何より三成を狙ったことにこそ意味があるに違いなかった。此処に住まう者たちではない、ならば―――いえ、やす。
弾が飛んできたのは背後に広がる木立からだ。脚を抱えたまま顔をあげ、緑の繁る木陰を凝視すれば、その眼に映ったのはやはりこの土地の者たちの見慣れた簡素な姿ではなく、都で天下人に仕えるに相応しい装束を着こなした一人の年若い男の姿だった。
木々の合間に身を潜めるようにして立つ男は、青褪めた顔に確たる決意を秘めて、三成へと短筒を向けていた。それも雑賀が扱うような、滅多に手に入らない特殊な型のものを。
家康、貴様。
三成は、憎しみに任せて吠えようとした。だが男が叫ぶ方が早かった。
「貴様はあの御方の御世にいるべきではない……!」
その声から滴るほど溢れた憎悪に、三成は開きかけた口を噤み男へ眼を据えた。男は己を奮い立たせようとでもいうのか、すぐには引き金を引かずに三成への弾劾を口にする。
「豊臣の怨霊め!貴様などを生かしている限り、あの御方の御身にいつ害が及ぶかわからぬ……!」
それは、案じる相手が違えど、三成が散々元親へ告げたことにも似ていた。
短筒を握る腕は興奮と、おそらくは恐怖に震えている。家康は互いに信頼を寄せ、事情を弁えた者を連れてきたと告げていた。眼の前の男の行為が独断であることは口上からわかっている。ならばこの男は三成を討つために、あの家康の油断ならない眼をかい潜り此処に来る者として選ばれたということだ。それを為し遂げた事実だけでも、この男が有能であることが知れた。
己が主の意思を、望みを、信頼を裏切るという大罪を犯すことを承知している。それでも為さねばならぬと決意した顔だ。三成は右脚の痛みを忘れ、他人事のように冷静にそこまでを汲み取った。
だが、その義務と覚悟に満ちた顔に、不意にさらなる歪みが浮かびあがった。
私怨の色が。
「―――なぜ貴様などが許される!!」
男は耐えきれぬという声音で叫んだ。
「皆、貴様に斬られ首を刎ね飛ばされて死んだんだ……!忘れるものか!飛んでいった首が落ちて転がった時に此方を見た、何もわかってないような顔で見たんだ……!忘れられるものか!忘れることなど許されるものか!!」
“例え誰が貴様を許そうとも、貴様が生きることを許しはしない”
三成は無意識に抱えた脚から手を放して、止血していた血が堰を切ったように溢れる出すのも構わずに、そう言い切った相手を茫然と見つめた。
あまりにも似ていた。
憎悪は廻り、裏切りは巡り、こうして我が身へと辿り着く。
相応しいではないか。
視界が急激に鮮やかさを増した気がした。憎悪を浮かべる男を見据え、三成は澄んだ頭でそれを認めた。
長曾我部も家康も要らぬというならこの首を、この男に与えてやったなら、少しは。
三成は一度、かすかに息を吐き、それきり何の躊躇もなく眼を閉じた。
思わぬ反応に息を呑んだ相手が、動揺と困惑と、それ以上の怒りと憎しみで惑乱しながら引き金に触れる気配が伝わる。主への裏切りに震える腕で、指で、歯を鳴らしながら、それでも己の憎悪と他ならぬ主への献身のために短筒を構え直す。
目蓋を閉じ、ただ衝撃だけを待つ凪いだ三成の意識の隅で、何か、が走った。
知った気配。
―――鋭く甲高い金属音と共に、三成の閉じた視界をさらに影が覆う。
何が起こったのか、半ば確信しながら眼を開いた三成は、自分と木立との間に立ちはだかった背中を睨みつけ怒号を発した。
「家康……!!」
「三成、無事か!!」
拳に嵌めた手甲で放たれた弾丸を弾いた家康は、総て悟っている様子だった。苦渋の色を瞳に浮かべ己が家臣と向かい合い、三成を背に庇う。
三成は瞬時に立ちあがろうとし、右脚の激痛に小さく声をあげた。三成、と焦った様子で飛んでくる声が煩わしい。痛みに構わず下半身を引き摺り起こすようにして立ちあがった三成は、己を庇うようにして立つ家康の向こうを睨み据える。