仮面舞踏会
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憂鬱な日がやってきた。
仮面の男こと、グラハム・エーカーは、一軒の家の前で立ち往生していた。
呼び鈴を押すことに抵抗がある。これを押してしまえば、もう後には引けないのだ。
命令や義理を無視したい。今日ほど強くそれを思った日もないだろう。それもくだらない理由のせいで。実際に玄関前で立ち尽くしていた時間は、ものの一分にも満たなかったのだが(怪しまれるので)、グラハムの中では永遠に近い一分間であった。
ピンポン、とベルが鳴った。
(ああ……)
グラハム・エーカー、生まれて初めて女装します。誰にともなく宣言すると、ガチャリと音を立ててドアが開き、中から現れた迫力ある美人に、熱烈な歓迎を受けたのだった。
「本当に久しぶりねぇ。傷のせいかしら? なんだか少し精悍な顔つきになったみたい」
「……そうでしょうか?」
グラハムは彼女の感想に対して、曖昧に微笑むしかできなかった。確かにあの頃からは年齢も加わっているし、実際にもういい大人になっている。彼女の言葉は褒め言葉なのに、素直に受け取れない自分が腹立たしい。
だから仮面を外すのは嫌なのだ。なんの罪もない人を困らせてしまうことになる。グラハムは改めてホーマーに恨みがましい気持ちを抱いたが、それもこのときだけであった。
何故ならホーマーの妻は、さすがは妻だと思わせるだけの大人物であったからだ。
「さぁさぁ、時間もあまりないから、さっさと取り掛かりましょう!」
「……そんなに時間がかかるんですか?」
グラハムは女装について詳しくない。というよりまったく未知の分野だ。かつてユニオン軍時代に、女性願望を強く持った同僚を何人か知っているが、彼(女)らとそういう話をしたこともなかった。
単純に、化粧をして、ドレスを着て、最低限の身だしなみを整えて、おしまいだと思っていたのである。
グラハムの無知な発言に、ホーマー妻は怪しげと言える微笑みを浮かべて、振り返った。
「私、手を抜くのは嫌いなの。やるからにはとことんやる! がモットーなのよ」
「素晴らしいと思います」
その精神はグラハムにも共通する部分がある。深く考えないで肯定してしまったことを、後で死ぬほど後悔することになるのだが──。
「そうでしょう? うふふ。じゃあ、バスルームへ行って、服を脱いで待っていてね」
「……はい?」
バスルームはわかる。服を脱ぐのも場所が場所ゆえに理解はできる。だが、待っているとはなんだ? 何を待つのだと、頭の中が疑問であふれた。
不思議そうな表情を読み取ったのか、ホーマー妻は言葉を付け足してくれた。ただし、ますます混乱を覚えるようなことを。
「剃るのよ」
「そる?」
「そう、剃るの」
それ以上は時間がもったいないからと言い、グラハムの背中を押しやって、バスルームの中へと強引に案内した。
「ちゃんと全部脱いで待っているのよ」
バタン、と扉が閉められる。なんだかよくわからないが、素直なグラハムは言われたとおりに服を脱ぎ始めた。無知ゆえに、剃るといったら『ヒゲ』しか思い浮かばなかったグラハムは、なんで裸になる必要があるんだと首をかしげながら、モソモソと手を動かしていた。
「用意はできた?」
「ええ、まぁ」
腰に大きめのバスタオルを一枚巻いただけの素っ裸で、グラハムはバスタブの縁に腰掛けて待っていた。
カタギリ家の浴槽は、アメリカの一般家庭のものより深くできているようだ。そしてやけに広い。何人もいっぺんに入れてしまいそうだった。
ノースリーブのワンピースに着替えた彼女が、荷物を小脇に抱えながら入ってくる。中身は様々で、グラハムに判別できたのはシェービングフォームと剃刀くらいだった。
「よし、始めるわよ!」
「えっ?」
何をと聞き返す間もなく、ホーマー妻はグラハムの左足を取り、いきなりシェービングフォームを膝から下にかけて吹き付けてきた。グラハムはギョッとする。
「な、なに……?」
「ん? だから、剃るって言ったじゃない。もしかしてわかってなかった?」
「……まったく」
グラハムが肯定すると、あはは、と大きな声で彼女は笑った。
「毛むくじゃらな女の子なんていないわよ〜。今から全身くまなくツルッツルに剃り上げていくから、覚悟しておいてね」
「──っ!」
そんなの聞いていない。といっても、もう遅い。真っ白い泡に埋もれた自分の膝から下を見て、グラハムは諦めの溜息をついた。
スーッと滑っていく剃刀の跡と、見事に何もなくなっている自分の肌を、グラハムは不思議な面持ちで眺めている。
まさかこんな経験をするはめになろうとは! これは一生知らないままで終わると思っていた世界だ。
女性は大変なのだなぁと、感心したり辟易したりしているうちに、足、腕、背中の順で剃刀の刃が移動していった。もちろん脇の下も終了済みだ。
「さぁ、最後の仕上げに入るわよ」
そう言った彼女は、何故だかとても楽しそうに見えた。グッとバスタオルの端をつかんだ彼女の手が、ペラリと布地を剥がそうとしてくるのを、グラハムは慌てて止めた。
「な、なんです!?」
思わず足も閉じてしまった。それこそまるで本物の女の子のように。
「まだ一番大事な部分が残っているじゃない」
「ひ、必要を感じません! だいたい、服を着たら見えない……」
「嫌だわぁ。会場ではナニがあるのかわからないのよ? 社交界なんて裏では暗躍の限りをつくしたり、腹黒い騙しあいが盛んに行われたりしているんだから。あと脂ぎったエロジジイが花を手折るために──」
「ますます行きたくなくなるようなことを、言わないでください!」
理解はしていても虫唾が走るような行為の数々は、グラハムの忌み嫌う分野だ。感情的になって怯んだところを、さすがは軍人の妻というべきか。狙い済ましたかのような行動を取っていた。
「隙あり!」
素早い動作で再びバスタオルをつかむと、間髪いれずにそれを捲り上げられた。唖然とするグラハムの『良心』が覆われた白い布は、彼女の手によってひん剥かれたのだった。