仮面舞踏会
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「はぁ……」
と、グラハムは湯船につかりながら溜息をついた。思い出すといろいろ恥ずかしいし、軽率だったしで、いっそこのまま溺れてしまいたいくらいだ。
それにしても、風呂中に満ちる女性が好みそうなフローラル系の香りに、グラハムはクラクラと眩暈がしそうになっていた。
「のぼせたかな……」
もう出ようと立ち上がると、やっぱり眩暈に襲われて、また湯船の中に逆戻りする。
「これは、12Gよりキツイな……」
動悸と眩暈が治まるのを待ってから、今度はゆっくりと立ち上がり、何も起こらなかったことを確認した後でバスルームを出る。
隣接しているパウダールームには、着替えのつもりなのか、淡いピンクのバスローブだけしか置いてなかった。グラハムはその場でしばらく頭を抱え込み、意を固めてそれに袖を通す。ピンクなんて子供の頃にも着たことがあったかどうか。
自分に対するホーマー妻の徹底した女性扱いに、いっそ天晴れという気持ちになった。
「落ち着いた?」
ここに来るよう言われていた部屋にグラハムが入っていくと、そこは彼女の寝室か仕事用の部屋か、どちらかのようだった。
奥には巨大なクローゼットが壁一面にあり、右側の壁にはベッドが置かれている。圧倒されながら中へと入っていき、ようよう会話を交わしだす。
「少し温まりすぎました」
「のぼせちゃった? 横になっていいわよ」
そう言ってベッドを指差してきたので、グラハムは素直に従うことにした。実際に、軽い疲労を覚えていたのである。
濃いベージュの花柄の上掛けを捲って、マットレスの上に腰を下ろす。それから枕を目がけて上体を倒していった。
「あらあら、大丈夫? 本番はこれからよ?」
「夜までには回復しますよ」
現役の軍人であるがゆえに。しかしその軍人が女装してパーティに参加だなんて、やはり悪夢としか思えないのだが。
「いいわよ、しばらく寝てなさい。そのあいだにやれることやっちゃうから」
「やれること?」
「ペディキュアにマニキュア、あとはボディメイクとかね。私のほうでスタイリングも決めておくから。貴方はメイクと着替えだけで残る準備はおしまいよ」
「わかりました」
すべてお任せしますとばかりに、グラハムは目を閉じた。洗いざらい吐き出してしまった後では、遠慮も何もいらなかった。
今のグラハムには彼女との間に不思議な連帯感がある。頼りになる大先輩とでもいうのか、パーティ会場で何か困ったことがあったら、彼女に相談すればいいと、そこまでの信頼をよせながら眠りに落ちていた。
「ん……」
緩やかな覚醒にゆっくりと瞼を上下させると、視界が徐々にクリアになっていく。もう夕方が近いのか、少し部屋の明るさが下がっていた。グラハムは上体を起こし、ふと違和感を覚える原因に目を留めて、声にならない悲鳴をあげた。
「──○▲×!*?#──???」
バスローブの前を広げて凝視するまでもなくハッキリとわかる二つの丸みを帯びた物体に、思考が停止する。
そして裾から伸びる二本の足の色の違い。これはストッキングだとすぐにわかったけれど、その上がどうなっているのかを、確認するのが怖かった。
「あ、起きた? おはよう」
「──お、おはようございます……。あの、これはいったい……」
「見事でしょう? 継ぎ目とか全然わかんないでしょう?」
オホホホ、とホーマー妻は自慢げに笑った。
「貴方ぐっすり眠っていて、まったく起きる気配がなかったから、やりやすかったわ」
まだ茫然自失状態のグラハムの隣に、彼女は腰を下ろしてくる。たわわに実った二つの作り物の乳房に手を当てて、ゆさゆさと揺れる感触をわざわざ実感させてくれた。
「もっと大きいほうがよかった?」
「い、いいえっ!」
今だって変に肌が引っ張られるような、つれるような感じがするのに、さらに大きくなったらどうなるというのだ。想像するだけでも恐ろしい。
「そうよね。貴方はそういうセックスアピールをするタイプじゃないから、これくらいで十分かなぁって考えたのよ」
それに、グラハムはパーティ会場で目立ちたいわけではなく、ホーマー(とカタギリ家)の願いを叶えるためだけに行くのだ。まったくもって、ホーマーがアロウズのトップだからこそできる他言無用の我侭であった。
ついでにとバスローブを捲られて、そこにあった予想通りの展開にグラハムは目をそらした。セクシーな女性用の下着にガーターベルト。これは精神的な拷問ではないだろうか。
「はいはい。そろそろいろんなことを諦める! もしくは吹っ切る! 私は貴方を完璧な女にするの。それで貴方が男だとバレたら、それは貴方の責任になるのよ」
「──!」
挑発とも取れる発言は、しかしグラハムの負けじ魂に火をつけた。そこまで言うのなら、こちらも完璧に女を演じてやると、悪い癖が発揮される。
「わかりました。私も男だ。やると決めたら最後までやりきってみせます」
「頼もしいわ。さすが、ホーマーが惚れるだけはあるわね」
頭を抱え込まれ、チュッと何度もキスをされる。しかし何かがいろいろと間違っているような気がするのだが、グラハムは深く考えないことにした。それをしたらきっと負けなのだ。今大事なことは『なりきる』ことなのだ。
コンコンと、部屋の扉がノックされた。
「そろそろ時間だが、準備はできたかね? レディたち」
大男のホーマーが、扉をくぐるように入ってくる。彼は少し屈まないと頭がつかえてしまうのだ。
「完璧よ、あなた」
彼女が視線を向ける先にいたもう一人の『レディ』を見た瞬間、いつも威厳たっぷりのホーマーの相好が思い切り崩れたのだった。