仮面舞踏会
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一週間ほど前に届いたホーマーからのメールは、とにかくひどい内容だった。珍しいくらい頭にきて、ドンと机を殴打したくらいには。
『来週金曜日に行われるアロウズ主催の仮面舞踏会に、お前も参加しなさい。来ないと勝手にアロウズへ入隊させるからな』
ひどい。これは脅迫というものだ。ビリー・カタギリはおじの強硬姿勢に眩暈を覚えた。確かにずっと要請を断り続けているけれど、それがこんな形で返ってくるとは思わなかった。
正直、まったく行きたくないが、アロウズ入隊が勝手にかかっている以上、参加しないわけにはいかない。ビリーは溜息をついて部屋を出ると、居間にいるだろう『彼女』にこのことを話そうと歩き出した。
二年前から続く生活に、出口という明るさと希望が見出せない。それをわかった上で、ずるずると変わらない生活をしている自分は愚かで滑稽だ。
「クジョウ」
リビングの扉を開けると、プンとアルコールの匂いが漂ってくる。いったい彼女はどうしてしまったのだろうか。四年前はこんなにも酒に溺れるようになるとは予想もしなかった。何かがあったのは確実だが、それに触れるのは禁忌のような気がして、聞くことができないでいる。
「……なに、ビリー?」
「まだ来週の話なんだけどね、僕、金曜日にでかける用事ができたんだ」
「ふぅん……。どこ行くの?」
さもどうでもよさそうに、それでも一応気を遣うように、彼女は会話を続けてくる。堕落して、奈落の底へ共に落ちていく感覚は、忌まわしいけれど抜け出したいほどではない。けれど閉塞感だけはどうしようもなく続いている。
「パーティに誘われちゃってね。どうしても断れない条件がついててさ」
「あら」
うふふ、と彼女は少し面白そうに笑った。
「でも誘ってくれる人がいるだけいいじゃない。私なんか……」
しぼんでいく声の後は、きまってグラスに手を伸ばす。琥珀色の液体がグラスから無くなっているときはほとんどなかった。
思わず『君も一緒に』と声をかけそうになって、ビリーはやめた。アロウズ主催のパーティに彼女を連れていったって、何も面白いことなどないだろう。
あの事件から、彼女は軍にトラウマがあるはずだ。そんな場所へ連れていくことはできなかった。
「来週の金曜は、僕、帰りが遅くなると思うから」
「わかったわ。……でもあなたの家なんだから、好きにすればいいじゃない」
邪魔なら出て行くから、がいつもの彼女の口癖だった。
残酷な女神。夢も希望も与えてなどくれない。けれどビリーはそれに縋りつく。天上の女神のほうが自分の下へと降りてきてくれたのだから。
***
「来たか、ビリー」
「あんな条件を出されたら、来ないわけにはいかないでしょう」
ここぞとばかりに文句を述べてやろうと、ビリーは一人で、おじたちがくるのをエントランス前で待っていたのだ。
「あれは口実だ。今日はおまえをどうしても参加させる必要があったんだ」
「なんです? そういえばエスコートする女性がいると聞きましたけど、見合いならお断りしますよ」
アロウズ入隊か、嫁を取れか、おじの最近の話題はこの二つに限られている。先手を打ってビリーが釘を刺しておくと、ホーマーの視線が哀れむようなものに変わった。
「断るのかね?」
「結婚する気なんてありませんから」
素っ気なく言うと、ホーマーの呟きが風に乗って流れてきた。
「……可哀想に……」
ボソッと呟かれた声が、何故だか妙に気になる感じだった。
「なん……」
「そうそう、そのお相手はもうすでに来ておる。あのリムジンの中だ。私だけ先に、お前に挨拶しに降りてきたのだよ」
「はぁ」
ビリーにとっては、する気もない見合い相手をおしつけられる気分だ。溜息のような返事をした後で、おじの後をついて階段を降りていった。
リムジンの扉が開かれる。
「お待たせしたね、レディ。どうにも朴念仁で気の利かない甥っ子だけど、どうかよろしく頼むよ」
「いえ」
その声に、ビリーは「ん?」と首をかしげた。女の声じゃない。低すぎるし、それより何より聞き覚えがありすぎるような気がする。
まさかと、おじの手を取って車から降りてくる人物に、ビリーの視線は釘付けになった。
豪奢なハニーブロンド。透けるような白い肌。仮面をつけているのでよく見えないが、微かに光に反射した瞳の色は緑。濃紺のドレスを右手でつまみあげながら車を降りる仕草は、本物のレディである。
ブロンドの美人がついと顔を上げる。ビリーと目が合った。
化粧もしているし、髪はおそらくカツラだろうけれど、でもビリーに見間違えるはずがなかった。
「グ、グラハ……、む、ぐ?」
突然横から伸びてきた手に口元を押さえられ、ビリーは驚いて首を横に向けた。見れば、おばがにこやかに微笑みながら、妖艶な赤い唇を開くところだった。
「その名前を口にするときは、彼女と二人きりのときだけにしなさいね?」
彼女っていったい、である。なにがどうなってこんなことになっているのだと、ビリーはまったく知らないのだから、少しくらい事情を話してくれてもいいだろうに。
今度はホーマーが口を開いた。
「いいかね、ビリー。はっきり言おう。今日のお前は彼女の引き立て役だ。さぁ、気が楽になっただろう?」
「……ええ、まぁ」
地味に目立たなく、影のようになれというわけだ。そのために自分は呼ばれたのかと思えば、確かに気は楽だった。
けれど本当に、いったいなんのためにこんなことをという疑問は残ったままである。一人だけ取り残されたような気分で輪に加わっていると、おじ夫婦が先に歩き出していた。
「あとは二人で好きなように過ごしなさい」
「えっ」
「彼女のことは任せたわよ、ビリー」
「……えっ」
何もフォローなし、という相変わらずなスパルタぶりに、ビリーは唖然とした。エントランス前の広場に二人で取り残され、頭の中が真っ白になる。ひゅう、という木枯らしの音すら聞こえた気がした。
「よくきたな」
「えっ!?」
呆然としていて、話しかけられたことに驚いてしまった。美しく着飾っているのに声はそのままであることが、どこか彼らしくて、ビリーはホッとした。
「軍からは離れていると聞いたが」
「ああ、うん、そうだよ。今日はおじさんに脅されたんだ。──君こそ、その格好は……?」
「私も似たようなものだ」
「そうなんだ……。ごめんね」
おじがとんだご迷惑をと、代わりにビリーが謝った。
「いや、それは半々くらいだからいい」
「半々?」
「こっちのことだ。ところで君はいつまで、私をここに突っ立っておかせる気だ?」
グラハムに言われ、ビリーはようやく本来の目的と仕事を思い出した。慌てたように肘を出し、彼女をエスコートする準備を整える。濃紺のドレスを身にまとったグラハムの右手が、差し出した肘にそっと添えられ、その柔らかい仕草に思わずドキリとした。なんだか本当に本物の女性みたいだ。
石の階段の真ん中に敷かれた赤いカーペットの上を、静かに一段ずつ登っていく。ビリーはごく自然と女性を気遣うような気持ちになって、グラハムをエスコートしていた。