仮面舞踏会
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ドレスというものは、なんて走りにくいのだろう。グラハムは裾を両手でたくし上げながら、追っ手たちを撒くために逃げ回っていた。会場となった建物内を様々に駆け抜けること十数分。ようやく、若さと体力の差で勝利を勝ち取ることができた。
けれどその頃にはグラハムもだいぶボロボロだったので、一旦ホーマー妻の元へ戻ろうと、再びホールを目指して歩き出した。
しかし、闇雲に逃げ回ったせいか、グラハムは自分がどこにいるのか、さっぱりわからなくなっていたのである。平たく言えば迷子だった。
「こ、困ったな……」
どこかに地図はないかとウロウロしていたら、見覚えのない広い場所に出た。こんなところは通らなかったはずだが──。
「おや。こんなところまでどうしました? 舞踏会の会場はここではありませんよ」
突然上から降ってきた声に、グラハムは驚いて振り返った。見れば階段の上、手すりに手を掛けた状態で、一人の男がこちらを見下ろしている。
衣装の感じから、彼もこの舞踏会の参加者だと見当はついた。もしかしたら主賓サイドの人間かもしれない。グラハムは知らないうちに、いわゆる『裏方』へと紛れ込んでいたようだ。
「……迷いました。ホールはどちらでしょう?」
持っていた扇を口に当て、若干声を曇らせることで質をごまかす。階段を降りてきた男は、ゆっくりとした口調で質問に答えてくれた。
「それは難儀でしたね。ホールへはそこの突き当りを右へ。次の角を左。そこまでいけばたぶんわかるようになると思いますよ」
「ありがとうございます」
墓穴を掘っては大変と、グラハムは礼もそこそこに駆け出した。今はいろいろと突っ込まれたくない身の上である。
男が教えてくれたとおりに進んでいくと、確かにその道は正しかったようで、やがて賑やかな喧騒がグラハムの耳にも届いてきた。今度は扇で口元も隠しながらホール内に入り、キョロキョロと彼女の姿を探す。
深紅のドレスを身にまとったホーマー妻の姿を見つけ、グラハムはホッとしたように彼女のそばまで近寄っていった。
「あら? どうしたの? 一人?」
彼女は驚いたように、息を切らしてやってきたグラハムを気遣ってくれた。この優しさが、今のグラハムには何よりの癒しである。
「……ちょっと追われて、逃げていました……」
「あらあら……。ビリーは?」
「知りません」
つーん、とそっぽを向くグラハムに、ホーマー妻は苦笑する。あの子は騎士として役に立たなかったのねと、すぐに事情を理解した。あのもやしっ子じゃ仕方ないかと思う。ハッキリ言って姫のほうが強いくらいだし。
けれど、知らないと言いつつどこか元気のないグラハムが、彼女からすれば甥っ子よりも断然可愛くて、つい慈しんであげたくなるのだ。
「髪もドレスも少し崩れちゃったわね。直してあげるから、外にいきましょう」
「はい」
廊下に出て、ビロードの大きな天蓋を利用して二人で隠れ、ドレスの着崩れを直していく。
「これで大丈夫ね。髪の毛は椅子が欲しいわね。ああ、あそこ、二階の露台を使わせてもらいましょう」
中庭に面するように設置されている露台は、いくつか数があり、恋人同士がこっそりと愛を育む場所でもある。二人は中庭から二階へ上がり、空いている露台の一つを借りて、そこにあるベンチへグラハムは座った。
今日は新月で、月明かりがない。ブルーの人工灯がなければ辺りも薄暗くてよく見えなかっただろう。そんな中で、彼の金髪はとても目立った。まるで彼自身が輝く月明かりのように。
ふぅ、とグラハムが溜息をついた。これはかなり精神的に参っているのかもしれない。髪をいじりながら、ホーマー妻は思った。
考えてみれば、女装して舞踏会に参加しろ、なんて正気の沙汰とは思えない話だ。最初はホーマー妻も悪ノリしていたけれど、もともとグラハムはとても責任感の強い男である。バレたらホーマーの顔を潰す、くらいは思っているのかもしれない。
それを思えば、自分も彼には大きなプレッシャーを与えてしまったことになる。やるといったらやる、と彼も納得していたけれど、その決意と精神力は決して比例しないだろう。
悪いことをしてしまったと、彼女は反省した。
髪を調え直し、グラハムの隣に腰掛ける。そっと左手を握り締め、労わるように包み込んだ。
「あのね、バレたらバレたで構わないのよ。ホーマーの企てでしたって言って、余興にしてしまえるから。貴方ずっと気にしていたでしょ? 昼間もグッスリ眠っていたし、気疲れしていたのね。ごめんね、ホーマーがロクでもないこと言い出して」
グラハムは彼女の言葉に驚いて目を瞠った。
「いえ、そんなことはないです。──それに、その、久しぶりに会うこともできたから」
むしろそっちに関しては大いに感謝していたのだ。ひょっとしたらこのまま二度と会うことなく終わるのではないかと、グラハムはそこまで考えていた。だからこんな形とはいえ、彼とまた会えたことは本当に嬉しかったのだ。
「貴方って本当に……」
健気ね、とホーマー妻は、グラハムの身体をぎゅっと抱き寄せた。
カタギリ家の男は皆そうだ。誰か支えとなる人物(恋人でも妻でも友人でも)がいないとダメなのだ。そしてその人物は、尻を叩いて発破をかけられるくらい強くないといけないのだ。
のほほん、としたビリーに彼はピッタリだろう。それなのに手放すとか、アホじゃないだろうか、あの甥っ子は。そう思ったらなんだかムカムカしてきた。
「少しここで休んでなさい。私、お水を持ってくるわ」
「すみません」
自分のショールをグラハムの肩に掛けて、冷えないように労わってから、ホーマー妻は奥の窓より直接ホール内へと入っていった。