仮面舞踏会
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グラハムは一人きりの露台で、ここにきたことを少し後悔し始めていた。
最初はホーマーの頼みだから、次はビリーに会えるからと目的は変化していったけれど、肝心のビリーがどこか迷惑そうに見えたし、客観的になれば女装してまで会いたいと思う相手なんて、自分でも鬱陶しい気がした。
もう帰りたいなと思った矢先だった。スッと横から透明なグラスに注がれた水が差し出され、そういえば彼女が持ってきてくれるはずだったとそれを受け取り、礼を言おうと顔を上げて驚いた。
「──なんで君が」
「おばさんに聞いたんだよ。さっきはごめんね」
一人にしてしまったことをビリーが詫びると、グラハムにしては珍しく弱りきった様子で目力も減っていた。
「まったくだ。私は声がこんなだから話せないのに大勢に取り囲まれて、助けてほしいのに君はどこにもいないし、本当に君の唐変朴ぶりには呆れたぞ」
「とうへんぼく……。君はどこでそういう言葉を覚えてくるんだい? いや、ごめん。反省はしているんだよ。本当に僕は気が利かなくてダメだね」
グラハムに言われて、彼がどれだけ困っていたのか、やっとわかったくらいだ。強いから平気だなんて、よく言えたものだと思う。
女装している時点で、彼には弱みしかなかったということに、何故気づいてやれなかったのだろう。
『彼』と『彼女』には、こんなにもハッキリとした違いがあったのに。
「疲れているって?」
ビリーは持ってきた水を勧めた。
「走り回ったからな。そういえば喉が渇いているかもしれない」
自分の様子に気づけないあたり、あまり調子がよくなさそうだと、ビリーは判断した。
両手でグラスを持って水を飲んでいる姿はずいぶんと可愛らしい。形がそうだと、中身まで変わってしまうのだろうか。
「怒らないでほしいんだけど……、その胸はどうなっているんだい?」
どう見ても本物にしか見えない胸元の谷間は、ビリーが正体を知っているからこそ、いやらしさや色気までは感じずに済んでいる。
「ああ、これは見事だな。君のおば上に詳しいことは聞きたまえ。私も眠っていたから、どうやってつけたのかは知らないんだ」
「ふぅん……」
眠っている最中にやられたんだと、ビリーは違う部分が気になった。
ふと、自分は勝手だと思った。空から降ってきた残酷な女神のことを、ビリーは愛しているのではなかったか。手放したくないと思うほどには。
今日だって彼女の元を離れてここに来ることを、とても嫌だと思っていたのだ。
それなのに、今ビリーの隣にいるグラハムの存在が、ひどく心地よくて安心感を呼び起こしてくる。少なくともクジョウと共にいるときには、まったく味わえない感覚だった。
ビリーは無意識に腕を伸ばして、彼の手をつかんでいた。
「なんだ?」
「あ、いや、なんだろ。──そうだ、せっかくの舞踏会なのに、僕たち全然踊ってないね」
ごまかすにしても、もう少し違うものをと思ったが、言ってしまった後では取り消せない。グラハムも困ったようにこちらを見た後で、ポツリとこぼした。
「私は女性パートなんて踊れないぞ」
あ、とビリーも気がついた。見かけは女性でも中身は男性のままだった。本当にボケているぞと、ビリーは頭を軽く振った。
「そうだ、じゃあ、ちょっと練習してみないかい?」
「知っているのか?」
「学生時代の話だけど、僕、おばさんの練習相手を務めていたんだよ。ほら、おばさん背が高いだろ。君と同じくらいあるし。だから釣り合う男子がいないって僕が借り出されたんだ。そのときに覚えちゃったんだよね」
何せさんざん付き合わされたのだ。頭のいいビリーは女性パートまでしっかり記憶してしまったのである。
「なるほど。では教えてもらおうかな」
せっかく女装してドレスまで着ているのだ。一回くらいはホールで踊ってみるのも悪くない。相手がビリーなら尚更だった。グラハムは水の入ったグラスをベンチにおいて、立ち上がった。
「今かかっている曲のステップは簡単だよ。ちょうどいいね。まずはゆっくり、右足を下げて、次に…」
軽く向き合って手を繋ぎあう。傍目に見れば男女が仲良くダンスの練習をしているようにしか見えない。
そんな倒錯的な空間を眺めるものは、夜空の星たちくらいだった。
練習の後で、ホールから聞こえてくる曲に合わせて実際に踊ってみた。運動神経と飲み込みのいいグラハムは、すぐにステップを覚えていた。
「さすがだねぇ、教えがいがあるよ」
「このステップは簡単だからな。でもフルで踊るのは少し疲れるな」
「大丈夫かい? 水、まだ残っているよ」
「ありがとう」
グラスを差し出しながら、ビリーは少し眉を顰めた。どんな訓練でもガンダムとの戦闘の後でも、疲れたなんて簡単には口にしない男だったのに。今は本当に不調なのだと思った。
「ちょっと休もう。君が疲れただなんて、心配になるよ」
「今日が特別だ。柄にもなく緊張しているらしい」
「ああ、女装しているから?」
「それもある」
グラスを呷るようにして中身を空にすると、ふぅ、と一つ大きな息を吐いて、グラハムは上空を見上げていた。露台に背中を預けて、ただ静かに佇んでいる姿は、まるで月の化身だ。あるいは女神でもいい。
ビリーの家にいる女神と違い、こちらの女神は夢と現実の二種類をしっかりとその身に宿している。女性の姿は夢と幻、男性の姿は力と現実を。
「それもってことは、他にもあるのかい?」
「うん。──あった」
そして今もまだ緊張は続いている。
どう言えばいいのかわからない。言葉が重たすぎてしり込みしてしまうのだ。君に会いたかったんだと言いたくて、でもそう言った瞬間には、そのすべてを忘れてほしかった。
「それはなんだい?」
ビリーは答えにくいことを聞いてくる。グラハムはグラスを両手で握り締めた。
「カタギリ。私は君と──」
会いたかったんだ。
喉の奥まで到達して出掛かった言葉は、しかし音として発せられることはなかった。
ビリーはしばらく待ってみたけれど、続きが囁かれることのない気配を感じ、諦めて近寄った。グラハムが少し身構えている。
「君が言いかけてやめるなんて珍しいね」
地毛だと思われる前髪にそっと指を絡ませて、その羽毛のように柔らかい感触を楽しんだ。グラハムのクセのある髪の毛は、ごく自然にビリーの指に絡まってくる。それがヒヨコの羽のようで愛らしい。
「──自信がないんだ」
グラハムがポツリと呟いた。
さらなる珍しい発言に、ビリーは驚いて目を丸くしてしまった。
「それは、君の台詞とは思えないよ」
「……そうかもな」
盟友の前でグラハムは弱音など吐けなかった。だからそんなことは一度も言わなかった。
エースパイロットは誰の前でも、己の弱さを見せてはいけなかったのだ。けれど今の自分には大層な肩書きもない。素直な心を偽る理由もなかった。