レールの上で、キス。
瞼
「聖なる右と、俗なる左」
がたん、ごとんと揺れる列車のデッキで、唐突に、ラビがぽつりとつぶやいた。
「―――何ですか? それ」
「ん〜、世界の、わりかし各地で見られる概念。キリストの偶像なんかもそうっしょ。聖なる右手で神の名を表し、俗なる左には聖書を抱いて戒めを、てな」
「ふうん……あれ? 聖と「俗」、なんですか?」
「そうさ」
「「邪」、じゃなくて?」
「「聖」の対立概念? うーん、そうさねー……これ語り始めたら長いし、めんどいんだけど、ま、昔っから、聖なるものを汚すのは、邪悪なものじゃなくて、俗な欲望ってことかな」
楽園追放のきっかけになった好奇心も、聖女を貶めた権勢欲も。
ふっと、ラビの右隣に立つアレンの視線が、落ちる。うつむいた顔を、さらりと覆い隠すはずだった白い髪も、風に乱されて少年の意図に沿おうとはしなかった。
その意味を知っているラビは、唇に苦笑を乗せる。
黒い団服の長い袖と白い手袋に覆われた、少年の左手。赤黒い異形に変じた手を、無意識にか、アレンはぎゅっと握りしめている。
風が暴いた彼の左目に刻まれた、呪いの五芒星(ペンタクル)と共に、今の話を、この少年は一体どう受け止めたのだろう。
でも、ラビは。
けっして、アレンを傷つけたかったわけではない。
「んで。右は精神を、左は物質を表す、てのも、ある。根本は同じ主張なんだと思うんだけど、皮肉と反骨も混ざったこっちのが、俺は好きさね」
右手で、白い髪に触れる。驚いたようにこちらを見た瞳と、あらわになった五芒星に笑いかけて、開かない左目を指先で撫でた。
傷つけたかったわけじゃない。むしろ、逆だ。
今は閉ざされた左目は、彼らエクソシストの敵たるAKUMAを見分ける稀有なる目だ。アレンの大事な人によって刻まれた、決して聖ではありえない、けれどこの俗界を生き抜くための、左の目だ。
きっと、アレン自身を、そしてラビを含めた周囲の人間を助けてくれるに違いない大きな意味を持った目を、望んだわけでもないのに背負わされ、そしてまた一方的に奪われたとしても、逃げず、折れることないしなやかな心。
尊びこそすれ、貶め、傷つける理由など欠片もない。
呪われ、それでもうつむかず。
目を取り上げられ、それでも毅然と前を向いて。
鮮やかな覚悟に、目を奪われた。
握り締められた左手を、右手で包み込む。
冷え切った体を、この魂が温められるように、祈りを込めて。
「アレンの左手は、天上の聖霊が出来ないことをする、エクソシストの手さ。魂の救済は、神に任せりゃいい。その為に、今、この世にあるアクマを解放する。それが、アレンの左手の―――俺らの、役割りだろ?」
今、ラビがこんな話をする理由。アレンに伝わっているだろうか。伝えたいこの心を、感じ取ってもらえるだろうか。
簡単に、言葉になんて出来ない。既存の、無難な形に押し込むことでしか押し留められなくて、婉曲に表すのが、立場に許される精一杯で、でも、伝えたい衝動は、もう抑えることが出来そうになくて。
どうか、知っておいてほしい。
言葉が許されないのなら、せめて。祈りにも似た気持ちで、握った左手に、唇を寄せる。
手の甲に埋め込まれた十字(神のかけら)、そこに宿るものゆえと思われるかもしれないけれど、誤解の中に、一片の真実を贈る。
「だから、きっと、アレンのイノセンスは、右じゃなく、左に宿った。聖も俗も邪も、どうでもいさ。この左手も、左目も。そんなん関係ない、とても大切なものだから」
「……ラビ」
「覚えといて。な?」
どうか、覚えておいて。いつか、気づいて。
誰が、そう言ったのか、それだけは。
03/手の甲
作品名:レールの上で、キス。 作家名:物体もじ。