こらぼでほすと 漢方薬1
「また、仕事が終ったら引き返してくるけど、なんか差し入れはいらないか? 女王様。」
医療ルームから、ニールの様子を見張っている八戒に、悟浄は声をかける。集中治療室を借りているので、ニールの寝台がある部屋と、こちらの監視する部屋は、ガラスで仕切られている。こちらの明かりは、あちらには届かないように、ガラスも特殊なもので、ニールの居る部屋は、ほの暗い状態だ。
「そうですねーチープなおつまみあたりをお願いします。柿ピーとかイカクンとか。」
「あーはいはい。おつまみセットね。じゃあ、行ってくる。」
それほど、慌てる事態ではないので、八戒も、のんびりしたものだ。これで、目が覚めたら、別荘のほうに移して、そちらで二日か三日、ニールが苦手とする滋養のある薬を飲ませて体調を落ち着かせるだけだ。これといった異常事態は起こらなかったから、一安心だ。後は、徐々に細胞が活性化して、体調も落ち着いていく。即効性ではないから、今すぐではないが、寺へ戻る頃には、かなり回復しているだろう。
テレビでも見ようか、と、映像用パネルに手を延ばしたら何かしら、音が聞こえた。聞き違えたか、と、思ったが、また小さな声がする。
「・・・・・」
八戒以外はニールしかいないので、そちらの部屋に入った。微かな声で、何かを呟いている。そっと近寄ると、「えいみー」と、聞こえた。
・・・えーっと?・・・・人名?・・・・
夢でも見ているのだろう。ということは、意識レベルは戻ってきている。バイタルサインを表しているパネルの表示も、それを証明していた。
「ニール、起きてるんですか? 」
声をかけたら、呟きは止まった。そして、「・・あれ?・・」 という声がする。薄暗いから表情までは読めないが、瞳は開いている様子だ。
「目が覚めましたか? 」
「・・あ・・ええ・・・俺、今・・」
ちょっとぼんやりしているらしく、言葉が続かない。
「『えいみー』って・・何度も呼んでました。」
八戒が、そう言うと、「やっぱり。」 と、返事が返ってきた。
「・・・あいつ・・どんどん・・走っていくから・・追いつけなくて・・・」
「どちらさまでしょう? 」
「・・・妹です・・・・」
それは、テロで亡くなった妹の名前らしい。覚醒していく意識の中で、そんな夢を見ていたのだろう。たぶん、ニールにとっては、幸せな時間の象徴だったはずだ。
「笑って走って行くんですか? 」
「・・ええ・・・振り向いて・・・手を振って・・・」
そこで、ニールは、息を呑んだ。そして、八戒のほうへ視線をゆっくりと向ける。
「・・・八戒さん・・・」
「はい、おはようという時間ではないですが、おはようございます。」
「・・・俺・・・いや・・・忘れてください。」
「はい、忘れます。喉は渇きませんか? 」
現実に引き戻された。だから、ニールは、その名前を忘れてくれ、という。なんとなく、八戒にも解るから、即座に頷いた。誰だって、過去の幸せな時間というものがある。それは、今更、口にするものではない。
「・・・少し・・欲しい・・・」
用意していた吸飲みを手にして、傾けてやる。それから、八戒も、言葉にする。これで、どちらも、それは忘れる。
「僕には、花喃という大切な愛する人がいました。でも、もういません。遠い昔に亡くなりました。」
「・・・・・・」
「忘れてください。」
「・・はい・・・」
口にしてはいけない名前は、誰だってある。それが、とても幸せなものだったら、余計に、今は口にしてはいけない。今は今の幸せというものがある。過去は、所詮、過去だ。どうとも覆ることはない。胸の中でだけ思い出すものであればいいのだ。
「一度でも絶望を味わった者は強くなりますね、ニール。」
「・・・そうかもしれませんね・・・・」
どちらも絶望を味わった。生きていくのも困難なほどの絶望だ。だが、生きている限りは、勝手に自ら死ぬことはできない。それは、絶望に負けたことを意味するからだ。そこから立ち直って、前へ進むしか生きていく方法はない。どんな形でも、生きていけば、次に、また、温かいものが待っていてくれる。
「気分は、どうですか? 」
「・・・ちょっと・・ぼおーっとしてます・・・」
「五日ほど苦しんでましたからねー。明日には、すっきりしてますよ。」
「・・・ええ・・・」
「このまま眠れそうですか? 」
「・・・んー・・なんとか・・」
「じゃあ、おやすみなさい。」
まだ、体力は戻っていないだろう。目を瞑れば眠れるはずだ。立ち上がろうとして、声をかけられた。
「・・・その人・・・」
「うちの宿六と知り合う前の話です。忘れてくださいよ? 」
「・・すいません・・・年が離れていたので・・・赤ん坊の頃から大切にしてました・・・かわいかったんですよ? ・・・・・忘れてください。」
「ええ、忘れましょう。」
静かに、ベッドから離れる。そこから、監視ルームには戻らず立っていた。パネルの表示は読み取れないが、呼吸の音で眠りに入ることを確認して、ようやく部屋を出る。
翌日の朝から、ハイネが宣言通りに医療ルームにやってきた。だが、すでにニールは起きていた。
「おまえのダーリンだぜ? ハニー。」
「・・・・気でも触れたか? ハイネ。」
「あーインプリンティングの失敗だ。目覚めに間に合わないなんて、とんだ失態だ。」
ぎゃあーぎゃあーと喚いているハイネに、蹴りをひとつ見舞って、レイもやってくる。
「おはようございます、ママ。」
「おはよう、レイ。」
「ちょうどいいや、レイ、ママを別荘のほうに運んでくれ。それで、適当に監視しといてくれないか? 」
一応、容態の確認に一晩、監視したが、具合は良さそうなので、ここいらで、沙・猪家夫夫も、本格的に休息する。後は、いろんなお決まりの漢方薬を飲ませて、安静にしていればいいだけだ。
「わかりました。」
まだ、発熱の影響で、ふらふらしているので歩くのは無理だ、と、付け足されて、レイは考えた。残念ながら、ここには車椅子というものはない。それなら、抱きかかえて運ぶか、と、毛布をニールの肩に置いた。
「おら、レイ。そういうのは、間男の役目なんだよ。おまえは、あっちのベッドを寝られるようにしてこい。」
それを横から掻っ攫うように、ハイネがお姫様抱っこで抱き上げた。身体が思うように動かないから、ニールは諦めて大人しくはしているが、不満タラタラだ。
「なんで、お姫様だっこなんだ? 」
「麗しのママニャンなんだから、担ぐなんてありえないだろ? くくくく・・・なんなら、看護もしてやるぜ? 清拭とか清拭とか?」
何やらご機嫌で、ハイネは楽しそうにしているのだが、さくっと、その腕からレイはニールを横取りする。
「ママ、俺とシンが看護しますから安心してください。行きましょう。」
「レイ、午後から本宅の看護士が来てくれるから、それまでハイネに襲われないように警護しとけ。」
「わかりました。」
作品名:こらぼでほすと 漢方薬1 作家名:篠義