インソムニア
さすがに夜中の三時を過ぎているからか、酒場は閉まっていた。むしろよかったのだと思い直し、クラウスは歩き始める。酒を頼って部屋を出たのはいいが、こうなってしまうと自然と足取りも遅くなった。
「あら、こんな所でどうしたのですか、クラウス様」
唐突にかけられた声に飛び上がる。振り返ると、暗闇に銀の乙女が立っていた。
「し、シエラ殿」
「このような時間に、なぜ?」
もしかして、とシエラは微笑みながら、クラウスに顔を近づけてくる。
「眠れないのですか?」
「シエラ殿こそなぜこんな夜更けに? お一人では危ないですよ」
「まぁ、クラウス様。そのようにお優しい言葉、もったいないですわ。わたくしはただ、散歩でもと」
「こんな時間にですか?」
シエラは意味ありげに笑う。
そういえば彼女は吸血鬼と呼ばれる一族の始祖であり、27の真の紋章持ち。深夜に徘徊していてもおかしくはない。
クラウスがわずかに緊張すると、それを読み取られたのか、シエラは不満そうな顔になる。
「あの、少しご一緒しても?」
そう申し出ると、シエラは嬉しそうに頷いた。
外まで出てくると、シエラは足を止めた。つられてクラウスも立ち止まる。青白い満月のおかげか、外は思ったよりも明るく感じた。
「そういえばわたくし、お話したいことがございましたわ」
「なんでしょうか?」
「遅くなってしまいましたが、このたびはお悔やみ申し上げます」
とまどうのを必死で隠すと、シエラの赤い瞳が覗いてきた。
「お父上は立派な戦いをされたと思います」
「……そう言ってもらえるなら、父も本望でしょう」
「クラウス様は軍師をお勤めですから、承知の上だったのでしょうけれど、やはりお辛いのではないかと」
「そんなことはありません」
言い切るとシエラがまじまじと見つめてくる。クラウスは振り払い、息を吸う。
「覚悟は出来ていました。戦いに身を置くと決めた時から」
体が弱くまともに剣を振れそうにもないので、代わりに軍略を極める。そう父に宣言した時、腹をくくった。戦に関わる以上、父も自分もいつ死んでもおかしくない、と。
だから武人として相応しい最期を迎えられた父の死を、嘆くことなど許されなかった。
「父は武人、私は軍師です。悲しむことなど、父は喜ばないでしょう」
「おんしは変わっておるのぅ」
シエラの声にクラウスはびくりと反応してしまう。口調が変わったから、そのせいだと思い直す。
けれども月にさらされた赤眼はクラウスを射抜いてくる。
「いつの世も、親しき者との別れは悲しい。人とはそういう存在のはず」
ちがう、自分は軍師としてあるべき姿をとっただけなのだ。
「しかし、それでもおんしは辛くないと申すか」
そうだ、辛くない、自分は軍師としてあるべき姿、を。
「……わらわとて、未だに胸が痛む時もあるというのに」
ふわり、微笑むシエラを見てクラウスは息を飲んだ。
「では、わらわが慈しんでやろう。死を、尊厳を、想いを、すべてを」
ちがう、自分は、辛くなど。……違う。わかっていた。違っていたのは、自分の態度。
「シエラ殿……」
「そのかわり、もしわたくしが果てた時は、悲しんでくださいね。クラウス様」
貴女に果てる時などくるのか。浮かびあがった疑問はシエラの含み笑いで消え去る。ふいに、なにかの糸が緩んだ。
「……わかりました」
そう答えると、彼女は意外そうな顔をする。クラウスはようやく一枚勝てた気がした。