Alf Laylar wa Laylah
エドは声を幾分真面目なものにして問いかけた。すると、また沈黙。これは質問を間違えたか、と冷や汗をかいた時、しかし返答はあった。
『…驚いた。それは、あいつのことか? 冒険王、…いい諡(おくりな)をもらったものだな』
この反応はマースのときとは違う。彼は王様のジンといってすぐに理解した。まるで冒険王の昔話も、どう伝わっているかまで知っていたかのように。だが今向かい合う彼、伝説に語られる強大な魔法を多く操ったイフリートはそもそも冒険王が「冒険王」と呼ばれていることさえ知らない様子だ。尤も、誰のことかはすぐにわかったようだが。
『…それで? なぜおまえはここに来たのかな』
「そんなの決まってる」
殆ど反射のようにエドは答えていた。
「あんたと旅するためだ。あんたと、世界を見るためだ」
『…ふん、…世界を見る、ね』
「オレは知りたい。世界中が知りたい。そこにはオレの知らないことがたくさんあって、真理が見つかるはずなんだ、錬金術の究極があるはずなんだ! だけどオレの足じゃ世界中見て回るなんて一生無理だろ、でも、あんたがいたらそれは夢じゃない!」
熱っぽく語ったが、あまりイフリートの反応は芳しくなかった。だがエドはめげなかった。そもそも、そんな簡単にいくとは思っていない。
「なあ、一緒に行こう!」
『なぜ私が』
しかし、鼻で笑われてエドは頭にきた。めげはしなくても頭にはくる。元から気は長いほうではない。
「なんだよ、臆病もん!」
『…なに?』
相手の声の調子が下がったが、エドはぎゅっと拳を硬くして声を限りに叫んだ。
「だってそうじゃないか! あんた、置いてかれるのが嫌だったんだろ、でもそのくせずっとここに留まったのはなんでだよ!」
『……』
「待ってたからだ。そうだろ? 友達が、やっぱりもう一回一緒に旅に出ようぜって、そういって戻ってきてくれるかもって、ずっと待ってたんだ、だからあんたは王様に封印させたんだ、そうだろ?!」
エドは勢いに任せて護符を思い切り引きちぎった。もっと抵抗があるかと思ったが、封印されてもなおこれだけの影響をもつイフリートを抑え続けていたのだ、護符自体が弱くなっていたのかもしれない。あっさりとそれはちぎれて、そして熱のせいかそれとも受け続けた力のせいか、霧散してしまった。
「出てこい、臆病もんで甘ったれの寂しがりイフリート!」
目を閉じて拳を硬くして、腹の底からの大声でエドは怒鳴った。
――ドォン!
音というより衝撃がきて、エドは吹き飛びそうになった。いや、もしも指環が光らず、そこに宿るジンが守ってくれなかったら、確実に壁に激突していただろう。
「…言いたい放題言ってくれるじゃないか」
声の響き方がそれまでと違って、エドは驚きに目を見開く。
今彼の目の前にはどこからどう見ても人間にしか見えない若い男が立っていた。そして引き換えのように、近くにあったはずのマグマが消えていた。しかし熱だけは残っている。幻覚か、とエドが目を開いたり閉じたりしたのもわけはなかった。
「威勢のいい子供だな」
黒い髪に黒い目をした、均整の取れた体つきの男だ。エドにはあまり人の容姿の美醜はわからないけれど、それでも、目の前にいるのが随分と整った面差しの人物だということくらいはわかった。
彼はふん、と唇を歪めて笑った。だがその目はあくまで面白がる色に揺れている。エドもさすがに言葉が出なくて、ただその男を見つめるしか出来なかった。
――ジンは煙のない火から生まれたといわれている。その姿はそれゆえに変幻自在、土から生まれた人間とは異なるものだと。マースも半身こそ人間だが半分は煙のようになっている。大きさだって大きくはない。
だが今目の前にいるイフリート(で、あろう人物)は完全に具現化していた。髪の毛も、指先、その爪の一枚までも、全てが人そのもの。どれだけの魔力を秘めているのかと、エドは今さらに喉を引きつらせた。鼓動は早鐘を打って息苦しい。
男は眇めるようにしていた目を戻し、ゆっくりとエドに近づいてくる。上半身は裸で、引き締まって完成した体躯がいっそ憎らしい。下半身に身に付けた下袴(ズボン)ははそこらで見かけるのとあまり違わないが、腰で留めているベルトは値打ち物に見える。金とオニキスの細工物には紅玉まで散りばめられている。どうやらイフリートというのは思ったより洒落者らしい。なんだか意外な気もする。
「名前は?」
静かにエドの前に立った男は、口元に薄く笑みを刷いて問いかけてきた。思わず釣られて答えそうになって、はっと口をつぐむ。きっと睨みつければ、男は今度は愉快そうに笑った。
「名を取られては操られると思ったか、賢しいな」
「…そうだけど、そうじゃねえ」
「そうだけど、そうじゃない?」
男は不思議そうに首を傾げた。黒い髪が自然に揺れる。そんなところまで完璧に今目の前にいるのは人間にしか見えなかった。
「人に名前を聞くときは、自分から!」
エドはびしっと指を突きつけて、鼻息も荒く言い切った。これはイフリートの意表をついたと見え、彼もぽかんとした表情を浮かべる。そうすると、人間にしか見えないが人間離れしている容姿がわずかに親しみを増してなかなか良い。
「そんなことも知らないで人のこと赤ん坊とかガキとかち、チビとか言うんじゃねえ! そっちが礼儀知らずだ!」
「…………」
男はまじまじと子供を見つめていたが、ややして顔を俯けると肩を震わせた。笑っているらしい。ますます失礼な奴だ、とエドは眉を吊り上げたが、男は機嫌良さそうに顔を上げると、なぜか恭しい態度で名を告げた。チビなんて言ってないだろう、そんなことは言わずに。
「ロイだ」
「ロイ?」
問い返すのに告げられたばかりの名を以って換えれば、ロイとエドとの間で一瞬光のような何かが弾けた。
「…っ?」
「契約終了」
ロイは腕組みして笑った。
「さあ、幼き主よ。名を聞かせてくれ」
「え、…契約、って?」
きょとんとして首を捻れば、男は笑いすぎてにじんでいた涙をぬぐって、なんでもないことのように答えた。
「今、私の名を呼んだだろう」
「え? うん、だって、…え?」
「名を渡すということはそういうことだ。おまえは面白い。主」
「エド、だ」
「エド?」
ロイはかすかに目を細めて呼びかけてきた。それに、こくんと頷けば、なぜか彼は一度目を瞠って。なんだ?と思っているうちにその表情は消えてしまったが。
だが、問いかける前に割り込まれてエドは黙る。
声は、エドの指環から発せられた。
『よう、よかったな、相棒』
「おっさ、」
「…マース?!」
ジンの名前をぎょっとした顔で口にしたロイを、え、とエドは振り仰ぐ。同じく冒険王の許にいたのならそれは名くらいは知っているかもしれないが、ロイの驚きようはそれにしては大げさな気がしたのだ。だが、その理由はすぐに明かされることになった。
擦りもしないうちに指環の石が光り、そして煙の男が現れる。ロイの顔に驚愕が浮かんだ。エドはただ困惑するばかりだった。
『久しぶりだなぁ、相棒』
作品名:Alf Laylar wa Laylah 作家名:スサ