Alf Laylar wa Laylah
母はただでさえ白い顔をさらに白くして小走りに駆けてきた。そういえばあまり体が丈夫ではなかったと聞いたことがある。お父さんと一緒になってからは病気もしなくなったのだけど、といつか話していた。父が何かしたとも思えないが…女性は出産によって体質が変わることがあるというから(概ね丈夫になる率が高い、らしい。街の女性陣によると)そういうことなのだろうけれど。
「どうかした? 母さん」
「あのね、…エドのことで、叔父様が神経質になっているの」
「……」
母が叔父と呼んだのはこの街の領主で、エドにとっては大叔父ということになる。幼い頃から数えるほどしか会ったことがないが、あまりそりがあうとは言い難かった。
しかし特に害されたこともないし、ひどい暗君というのでもない。そこそこに真面目で、そこそこに優秀という人だ。しかしその人が父という錬金術師を探し出し、頼み込んだ人間なのだから、見た目よりは鋭いのだろうし、抜け目もないのだろうとは思う。
「あの人は大丈夫と言ったけれど…、アル、これは大事なお話なの」
「大事な…」
母は真面目な顔をして、手に握っていた二つの腕輪を差し出した。一つは中央に翠玉がはめ込まれた金で出来た細工物の腕輪で、もう一つは細身の青銅の腕輪だった。こちらには特に飾りらしいものはなかったが、よく見ると中央に狼のような紋章が見て取れる。
「これがあれば隣の街までくらいは困ることはないでしょう。今すぐに支度して、街を出るのよ」
「――――はい?」
アルはぽかんとした顔で母の白い顔を見返した。母はどうしてしまったのだろうか。兄のことはあんなに引き止めていたというのに。
「こっちの金の腕輪は巡検使の腕輪。これがあればどこでも通れるし、宿もただで泊まれるし、食事も出してもらえるわ」
「えっ、ちょっと、母さん? 巡検使って…なんで…」
巡検使は都の王の直属の使い、である。王の目、王の耳とも呼ばれ、一代限りの官だが許された権限は大きい。だがそれだけに誰でもなれるものではないし、まして家にその証たる腕輪があるなんて初耳だった。誰かが巡検使だったのか? とも思うが、父親がそんなものだったとはとても思えない。しかし母親がそうだということはもっとない。
だが、戸惑うアルに、母はとんでもないことを言った。
「偽物なんだけどね、それ」
「…えっ?! か、母さん?!」
母親は茶目っ気のある顔で笑った。
「お父さんが、もしものときのために、って作ってくれたのよ」
「……………」
我が父ながらとんでもない、めちゃくちゃな人物だ。アルは頭痛を感じずにいられなかった。
「巡検使は王の官だけど、誰もどの人がそうだって知らないし、何人いるのかも知られていないわ。だからちょっとくらいならばれないよ、って」
母の目は父に呆れるどころかその真逆だった。そういえばこの二人は万年新婚かと思うほどに仲良し夫婦でしたよ、と息子はさらに脱力を覚えるが、そんなことは親の知る所ではなかった。
「とりあえずこれで隣の街までいって、ロックベルさんを訪ねなさい。きっとピナコさんならうまく匿ってくれるわ」
「ピナコばっちゃん?」
ええ、と母は頷いた。遠い親戚にあたるとかで、隣の街のロックベル家とは家族ぐるみで親しくしていた。それこそ近所に住んでいる大叔父より何度も頻繁に顔を合わせている。
「エドが帰ってこない以上、アルを手元に絶対においておこうとするわ、叔父様は。都にでも連れて行かれたら大変よ、帰ってこられないでしょう」
母は、そこでやっと気づいたが、どうやら怒っているようだった。うちでは母さんが一番怖いんだよね、と冷や汗をかきながら、アルは母親を見る。
「そうそう、こっちの腕輪は、我が家に伝わるものよ」
青銅の方を指差して、母は説明を続けた。穏やかな栗色の瞳はいつもより輝いて見える。大人しい人という印象だが、あの錬金術師の妻にしてこの兄弟の母親なのだ。けしてそれだけの人であるはずがなかった。
「中に狼のジンが眠っているそうよ。母さんは会ったことがないけど、アルのおじいさん、お母さんのお父さんは、よく一緒に狩に出かけていたと聞いたことがあるわね」
「…狼のジンと、狩…!」
アルは頭をがつんと殴られたような衝撃を受けた。なんだ、そのとんでもない家族環境は。こうなってくるとまともなのは一家の中で自分だけのような気がしてきたアルは、自分だって規格外であるということに気づいていない。
「友達になれる人には名前がわかるそうよ。母さんにはわからなかったけど…アルにはわかるかもしれないわね」
母はそんな風に言って、なぜか井戸の上の鷹をちらりと見つめた。まさか、とアルは背中を引きつらせたが、リザについては何も言われなかった。
「友達って…」
アルはもはや何を言えばいいかわからず、母にはめられた腕輪を見た。金の偽巡検使の腕輪は右の二の腕に、狼の紋章がついた青銅の腕輪は左の手首にある。
「さあ、早く支度をして。あの人が時間を稼いでくれている間に」
「え、父さんそのために行ったの?!」
「そうよ。そうじゃなければ頭が痛いとかお腹が痛いとか仮病で断ってしまうじゃないの、いつも」
「……父さんも大概だよね……」
何を言っているの、というように呆れた調子で言う母親に、アルは脱力を深めた。深めずにいられなかった。
「ほらほら、早く。荷物はちゃんと準備しておいたから」
「…ねえ、母さん張り切ってない?」
「そんなことないわよ?」
いや絶対張り切ってる。アルは思ったけれど、もうそれ以上は口にしなかった。
「ほんとに、なんで兄さんのはあんなに止めたんだか…」
「だってあの子っていつまでも小さいんだもの、すぐむきになるし。心配でしょう?」
「……」
兄さんが聞いたら泣くな、と思いながら、アルは腰を上げた。ここまでされたらどのみち出ていくしかない。
「…ボクはもう少し堅実な道を歩みたかったんだけどな…」
「アルは男の子なのに夢がないわねえ、もっと羽目を外してもいいのよ?」
「――――そうだね…」
どうやらこの環境ではそれは無理なことらしい。少年はそう覚らざるを得なかった。
簡単な旅装が確かに家の中には準備してあって、アルは結局鷹を肩にのせたまま慌しく街を脱出した。とにかく今は街から離れなければならなかった。
多少距離を稼いだ所で、アルは浅い横穴に腰を下ろした。リザと話がしたかったからというのがひとつ、腕輪を観察したかったのがもうひとつ。
リザは何を思ったか勝手に去らずに、アルと一緒に街を出てくれた。主の許へ戻らなくてもいいのだろうか、とアルは思ったが、行かないでくれた方が都合はいいので特に理由は尋ねなかった。
「あの、リザさん。さっきの井戸、なんだったんですか?」
気になっていたことを聞けば、鷹は瞬きした後、ゆっくりと答えた。
「水を頂いてわかったのだけど、あなたの家の井戸、…完全ではないかもしれないけれど、生命の水の気配があった」
「い、生命の、水?」
作品名:Alf Laylar wa Laylah 作家名:スサ