Alf Laylar wa Laylah
ぎょっとしてアルは繰り返した。まさかそんな名前が出てくるとは夢にも思わなかった。ただの水だと思っていたのに、そんな錬金術的にも大したものだとは…。だが確かにあの井戸は基本的に自分達家族だけが使っていて、それは完全にないとはいわないが、誰かと共有しているわけではない。父が自分で掘った小さな井戸だから、と聞いたが、よく考えたらおかしな話なのだ。皆、共同の井戸を使っているのに。
それも錬金術師に与えられた恩恵なのだろうとあまり深く考えなかったが、父が何か細工をしていたのだろうか。だが、このジンの言うことが本当だとしたら、それしか考えられない。
「でも、それが何のためか私にはわからないし、貴方たち家族に害があることではないでしょう。健康になるとか、長生きするとか」
「健康になる…」
アルは何気なく繰り返した後で、はっとして目を瞠った。
昔は病弱だったのに今は健康な母。深く考えたことはなかった。結婚してから丈夫になったの、あの人のおかげね、母はそう言っていて、そんなわけないよあのぐうたら親父のおかげなんて、とよく兄などは毒づいていたのだけれど、…本当に父親の力なのかもしれないということなんだろうか。
アルは息を呑んだ後、しかし脱力した。
ありうる。大いにありうる。そもそも一般家庭の井戸の水が生命の水なんていうのがありえないことではあるのだけれど、父の母への愛情といったらもうとにかくすごいのだ、そして父は無茶苦茶で規格外で人の理解を超えるが、とにかく凄腕の錬金術師であることは確かだ。つまり父の才能掛ける父の愛情、その解は井戸を細工して母を丈夫にすること、――なんていう…。
すごいことなのに、全くすごいことに思えない。むしろ頭が痛い。無茶苦茶すぎて。
「ところで、その腕輪」
「はい?」
アルは両腕を動かしどちらのことかと仕種で尋ねた。鷹は嘴でアルの左手首を示す。
「本当にジンがいるわよ」
「…そうですか。狼のジン?」
もう何があっても驚かないぞ、と思いつつ、しかしやや投げやりに問い返せば、そうね…、と少し考えるような響き。そして結局、こんなことを言ってくれる。
「あなたに呼んでほしそうにしているわ。呼んであげたら?」
「…は?」
アルは耳を疑った。しかし悲しいかな、彼はとても健康で、耳も目もすこぶるよかった。残念ながら聞き間違うことが出来なかった。
「…で、でも、ボク、名前なんて」
「本当に? 聞こえない?」
「聞こえない? っていわれても…」
しかしアルは基本的に女性には紳士的に振舞うことを身上としていたので、促されるままに、とりあえず手首を耳に近づけ、目を閉じてみた。そうして耳をすませる。何も聞こえない、はずだった。
「……え…」
笛の音のような、高い音が聞こえた気がした。驚いて瞬きし耳を離すけれど、衝動は去らない。耳に残る音も消えない。
高い音に続いて、アルの中にはどんどん音が入ってくる。草を揺らす強い風の音と、誰かの声がする。ああ、駆け回りたいんだ、とわけもなく思う。同調していたのかもしれない。
そうして、唇は勝手に音を紡いでいた。
「…ジャン?」
パリン、と高い、何かが割れるような音がした。あまりのことに目を閉じてしまったのだけれど、気がつくと目の前には大きな獣が増えていた。金色の毛並みに一瞬狐かと思ったが、…狼だった。ぎょっとするけれども、知性を感じさせる瞳を向けてくる狼は、普通の獣とは全く違うことを理解させた。第一、こんな風に顕れるのが普通の獣のわけがない。それに普通の狼よりいくらか大きいように見えた。毛並みの良さは言わずもがな、といってよいものか、どうか。
――ジンしかいなかった。母が言っていた、狼のジン。彼がそうなのだろう。
「…ジャン?」
今度は確かめるように狼に問いかければ、狼は嬉しそうに顔を寄せてきた。そして。
「ちゃんと会うのは初めてだなー、アル?」
「…あなたも喋るんですね…っていうかちゃんとも何も、ボクにとってはほんとに初対面ですよ…」
がっくりとアルは肩を落とした。さようなら平穏なる日常、とアルの心の中に切ない台詞が駆け巡った。
「あなた、見ないはずね、あの街にいたなんて」
「そりゃあ、俺はあの王様にくっついていきましたから。でもリザさんがいるってことは、あのひとも?」
「ちょ…ふたりとも、知り合いなんですか!?」
「言ってなかったかしら」
言ってませんよ、とアルは首を振ったが、ジャン、という名前らしい狼のジンは笑うばかりだった。どうやら陽気な性格らしい。
「リザさんはかわんないっすね〜」
「あなたもね」
「…ボクは兄さんと違って堅実に…地道に生きていたかったのに…」
「そりゃー無理じゃないか? だっておまえの親父さんは魔法使いじゃないか」
あっさりとアルの夢を踏みにじってくれた狼に、アルはきっと顔をきつくして言い返す。
「錬金術師です」
魔法使いなんて、魔道師だなんて、そんな連中と一緒にされては困る。勿論、都でその専門の研究をしている人間を皆毛嫌いするわけではないが、彼らの研究は犠牲を多く出すのでアルは好きではなかった。
が、しかし。
「あー、そうっていえばそうだけど、金の魔法使いだから」
「…は?」
「だからさ、両手から金を生み出すことも出来たっていう伝説の魔法使い。一番最初の錬金術師」
「…なんですって?」
「知らなかったのか? あれ、これ秘密だったのかな」
「秘密というか、夢だと思いたいんですけど。そろそろ」
アルは力なくうなだれた。もう家に引き返して寝てしまいたい。だがそうも言っていられないし、街の外に出てまったく興奮していないといったらそれはそれで嘘になる。アルだって、エドの弟なのだ。
「金の魔法使い? この子の父親が?」
アルにかわって、リザが問いかけた。だが質問からすると、「金の魔法使い」という名称は彼女達の中で既知のものであるらしかった。
「ええ。それに、こいつらにもその才能は遺伝してますね」
「封じられていた割に詳しいわね、あなた」
「まあ、別に強力に封印されてたわけじゃないですしね。名前さえ呼んでくれればいつでも出てくる準備はあったわけですし。でも、こいつの兄ちゃんは頑固でね、俺の呼んでる声の入る隙間がなかった」
「兄さんは王様のジン一筋でしたからね…昔から」
思わずアルは口を挟んだ。
「そうだよなあ、…あれ? リザさん、あのひと、封印とかれたんですよね? 誰に…?」
リザは「気づくのが遅いわよ」と冷たく言ってから、告げる。
「この子のお兄さん。エドワードが、あの方の新しい主よ」
「え!」
ジャンは驚いたようだった。尻尾がぶわっと膨らんだように見えて、ああ、そういうところはなんだか動物っぽいんだな…とアルは思った。
だが今考えるのはそこではない、ということも少年にはわかっていた。基本的に聡い少年だ。
「あの、ちょっといいですか」
鷹の目と狼の目が少年を見つめる。しん、と沈黙が落ちる。
「話が長くなるようなら、移動しようと思うんですけど」
いやに現実的な提案だったが、賢い提案ではある。何しろ、領主から遠ざかるためにアルは街を出たのだ。こんな所で長話をしていてつかまったら意味がない。
作品名:Alf Laylar wa Laylah 作家名:スサ