Alf Laylar wa Laylah
ロイの、ジンならではというか、イフリートの面目躍如というのか、人には到底叶わない、素早く間隙のない威力の高い魔法、小さな焔の塊が誘拐犯を取り囲む。それで普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出す所だが、イフリートを出し抜く人間が普通のわけがなかった。それはロイもある程度予想していたので威力は上げていたのだが、誘拐犯はその予測さえ超えていた。
彼はロイの間断のない攻撃を凌ぐと、片手で胸元から何か紙を取り出し、空へと投げた。それが護符であることに気づくことにロイは一瞬遅れた。そしてその一瞬が命取りになった。
――カッ、
中空に白い閃光が弾けたのは魔法の発動。そして誘拐犯と少年は消えていた。ロイは光に視界を奪われることはなかったが、どのみち、一瞬の油断から勝機を逸していた。
「転位の魔方陣…」
転位は魔法の中でも難易度の高い、特殊なものだった。術には向き不向きというものがあって、転位はその中でも癖の強いものだった。加えて、一度に移動できる距離の長短の差によってさらに難易度が変わる。一瞬で何千里を翔けるものもあれば、せいぜい数歩先に移動する程度の転位もある。前者は移動に特化し、後者はどちらかというと、戦闘中に役に立つ技能であり、術を使わずとも、肉体の鍛錬で似たようなことが出来るようになるものもいた。
誘拐犯が使ったのは、高次の転位術のようだった。気配を探っても、近い場所には少年のそれが見つけられなかったことからそれがわかる。もし救いがあるとすれば、誘拐犯が使ったのは転位の魔法陣が描かれた護符だということだった。つまり、純粋な彼自身の能力ではないということだからだ。それであれば、使える限度がある。何度も同じ手段を用いることはしないはずだった。但し、相手が複数からなる集団で、駅伝方式で次の術者に渡して転位を繰り返されたら事だ。
とにかく楽観できる状況では全くなかった。少なくともこの近隣の街程度にはエドの気配が全くないのだ。転位の際に残された術の名残、軌跡のようなものを辿っても、相当遠い場所だということしかわからない。
ロイは舌打ちしながら具現化をとき、本性である姿へ戻った。
ただ、もしも魂や精神というものを視るものがいたのなら、変わらない、むしろ人である時よりも整っているかもしれない面差しをそこに見つけただろうけれども。
狼のジン、ジャンの背に乗っての移動はあっという間に終わった。だが、移動時間が短縮されたからといって、疲労が浅かったかというとそんなことはなかった。隣のオアシスの街についた時、アルはかなりぐったりしていた。それでも倒れなかったのは、どうにか母に言われた通りピナコにあわなければいけないという鉄の意志があったからでしかない。もしも普通の少年だったら、とっくにへばっている。
それに。
「…大きいんだね」
ちらりと、アルは隣を歩く青年を見上げた。金髪に青い目は異国の人間を思わせる色合いだったが、交易路に沿っているこの近隣の街では異国人も珍しくはなかったので、そういう意味で目立つということはなかった。なかったが、アルはやはり落ち着かなかった。
――街につくなり、ジャンは言ったのだ。俺、このままじゃさすがに目立つよなあ、と。
どういう意味、と首を傾げる間もなかった。彼はさっさと人間の姿に変わってしまったのだから。アルは驚いて絶句したが、すぐにあたりを確認するあたりは本当にしっかりしていた。それに、アルはしっかりもんだなあ、とのんびり笑いながら言ってくれたジャンは、大丈夫、人の気配はないから、と請け負った。もはや何もいう気になれず、じゃあ、いいです、とうなだれることしか少年には出来なかった。
そうして、ジャンである青年(二十代…くらいに見えた)と、こちらは鷹の姿のままのリザを肩に載せたまま、アルは覚えのある通りをしっかりと進んでいった。
辿り着いたら倒れてもいいはず、と思いながら。
――しかし、運命の女神はどうやら公平な性分だったらしい。兄に試練を与えるなら弟にも、とばかり、アルの前にもしっかりと困難を用意してくださっていたのである。
ロックベルは医師の家系だった。ピナコも例に漏れず、どころか都の典医を凌ぐ当代随一の名医と謳われる医者だった。特に外科手術でその名を馳せ、救った命は数知れない。今はもう引退しているが、ロックベルといえば未だに知らぬ者はいないくらいの女傑だ。また、性格も豪快で、たかだか街の領主程度では到底歯が立たない。そしてそんな彼女は、母トリシャの遠縁でもあるが、アルの父ホーエンハイムの友人でもあるという。
今はピナコの息子夫婦が跡を継いでいる診療所へとアルは向かっていた。何度か訪れたことがあるので道に迷うことはなかった。が、それでも目を疑ってしまったのにはわけがある。
「…は?」
建屋にして三軒分くらいの先に診療所はあったのだが、石造りのそれは、なぜか火に包まれていた。
アルは一瞬硬直した。それは回りで立ち尽くしている大勢の人にしても同じだった。中には悲鳴を上げているものもいるが、とにかく勢いがすごすぎて、あまりにも現実離れしすぎていて、どうにも出来ないのだ。
だが、アルは結局、普通ではなかった。
「ジャンさん」
「ん?」
やはりジンは人間とは反応が違うのか、目の前の大火事にも全くうろたえた様子のない狼のジンに、アルは真剣な顔を向けた。
「ジャンさんを見込んで、頼みがあります。あの中に逃げ遅れた人がいたら、助けてきて」
しっかりとした強い口調と、瞬き一つしない瞳には意志の強さがあった。それこそ、彼の兄と共通する強さが。ジャンは目を細める。
「でも、俺だって火傷しちまうかもしれないし?」
「へえ? あんなに素早く動けても、やっぱり火の勢いには勝てませんか。じゃあしょうがないかなあ、そんなに安全志向とも思わなかったけど」
アルは無害にそういった。いっそ見事なまでの挑発。しかしジンは気分を害したりはせず、むしろ楽しそうな笑い声を上げると、ぱっと姿を変えた。こんな所で、とアルはうろたえたりしなかった。誰もこちらには注目していないのはわかっていた。ジン達は、自分達に向かう視線をある程度殺してしまえるのだと覚っていた。
「乗せるのがうまいねえ、よし、乗った、任せろ」
ジャンは言うが早いか大火の中に飛び込んでいった。しかしアルはそれで終わりにはしない。ずんずんと人波を分けて前に出ると、うろたえる人を背に、火の粉が飛んでくるのも厭わず立ちはだかった。その肩にはまだ白い鷹が乗っている。
少年は両手を重ねた。父や兄程の才能は自分にはない、それは昔からわかっていた。だがしかし、それに拗ねたことはない。自分は自分にしかなれないのだ、それくらいなら、嘆く時間に努力した方がよほどにいい。そういう意味で、少年もまた天才ではあったのだろう。努力するということにおいて。
ぱん、という乾いた音がどれほどの人の耳に入ったか。それはわからない。だが、少年が地に手をついた瞬間、地面は隆起し、背に庇った人、隣の建物から火を防ぐ盾となった。
「早く避難してください! 動ける人は動けない人を運んで!」
作品名:Alf Laylar wa Laylah 作家名:スサ