Alf Laylar wa Laylah
我を失っていた人達も、突然のことにしんと鎮まりかえるしかなかった。少年は振り返ることもなく声を張り上げる。その目は、勢の衰えない前方の火だけを見つめていた。
少年の姿に人は何を見たのか、畏敬の目をむけたあと、言われるがままに避難を始めた。動ける数人は消火活動を始めるべく走り出す。
「――すごいのね」
肩の鷹がぽつりと言うのに、いいえ、全く、と前を見たままアルが答える。その台詞には謙遜はなく、苦笑が漂っていた。
「父さんか兄さんだったらもっと…、でも今ここにはボクしかいないから」
「…。ジャンだけ働かせては、私の名が廃るわね」
「え?」
少年の返事に、リザは一拍の間を置くと、ふわりと肩から舞い上がった。そして、翼を振るう。ただの羽ばたきのようだったが、しかし、釣られて強い風が巻き起こったのはやはりジンならではということか。
巻き上げられた髪に遮られた視界で、アルは見た。火の手が弱まるのを。そして、リザは同じ動きを繰り返す。数度か風に吹かれれば、火は殆ど消えかかっていた。そして、それを待ったわけではあるまいが、体に火の粉をまとわりつかせながらジャンが飛び出してきた。その背中に三人くらいの人間を乗せて、口には子供の襟首を咥えていた。白っぽい毛並みはあちこち黒くなっていが、特に火傷を負っているようでもない。どうやら火には強いようだ。
「…ウィンリィ!」
アルは、ジャンに駆け寄ると、顔色を変えてその背中から同年代の少女を助け起こした。うめき声を上げて、彼女は目を開けた。
「…アル?」
微かな声に、アルは顔を崩した。火の粉がちりちりと髪を焦がすが、気にもならず、少女を抱きしめる。よかった、と繰り返せば、ジャンが子供をおろしながら笑ったようだった。
リザの起こした風であらかた火が弱まると、後は人間の手でも消火が可能だった。それらを見届けて、土の盾を崩すと、アルも今度こそがっくりと膝を突いた。しかし、消火が終わるっても彼に休息は与えられなかったのだ。まずロックベル家の人々との無事な再会。これはいい。だが、アルの見せた練成と、彼が連れていた鷹と狼の不思議さに街の人間は大いに興奮し、街を救った英雄として歓迎の宴を始めてしまったのだ。ロックベル家に恩を感じる人間は多く、そのロックベルを救っただけでも得難い人材であるのに、その方法が普通ではないとあっては興奮しない方がおかしかった。ただでさえ、火を見た人間達は興奮していたのだから。
ボクはもう眠い、そう思いながらも、愛想のいいアルは断りきれず、主賓の席に座らされ、口元を引きつらせていた。唯一ありがたかったのは、幼馴染ともいえる少女、今は祖母と両親の後を継ぐべく医者見習いをしているというウィンリィが隣にいてくれることだけだ。
「…痕にならないといいね」
不意に、少年は、ウィンリィの腕に火傷があるのを見た。火傷といっても小さなものだ。当人はぽかんとしたあと、からからと笑ってくれた。
「こんなの、冷やしときゃ治るわよ」
男前な言動は祖母譲りと評判の幼馴染に、アルは苦笑した。まあとにかく元気でよかったと思う。
「しっかし、タイミングよくきてくれたもんね。助かったけど。なんかあったの?」
そして、その頭の回転のよさもそのままだった。ウィンリィはいわゆる良妻賢母のタイプではないかもしれないが、有能な「働く女」になるのは間違いない。アルはそう思っている。
「まあ、色々ね。それは後で説明するよ。それより、この火事…どうしたの、一体」
「放火。だと思う」
「え…」
アルは目を丸くした。ロックベルを恨む人間がいるとは思えない。しかし、幼馴染は親指を噛んで、その黙っていれば可愛いはずの顔を凶悪なものにして低い声で唸った。
「嫌がらせよ。なんだか知らないけど、ばっちゃんか、無理なら父さんに来てくれって何日か前から貴族だかなんだか知らないけど来てるやつがいてさ。断ってんだけど…、」
そこでウィンリィは口をつぐんだ。さしもの彼女も、それ以上は憚られたらしい。アルもまたそれ以上を尋ねることはしなかった。
「…今日、特に怪我した人とかいなかったんだって? 避難が早かったんだね、よかった」
「まあね。って、言いたいとこだけど、あんたのおかげもあるよ」
ウィンリィはそこで照れくさそうに笑って頭をかいた。
「アルが回りの人を避難させてくれたんでしょ? それにほら、狼?なのかな、私達助けてくれたの。あの狼もアルの…でしょ?」
でもいつの間に狼なんて飼い始めたの、と少女は首を捻った。飼ってるわけじゃないんだけど、とアルは口元を引きつらせた。まさかジンですともいえない。いや、言ってもいいのだが、あまりこの場は相応しくない。
「それに鷹も! あんな真っ白で綺麗な鷹はじめて見た!」
「…そうだね、ボクも初めて見た時そう思ったよ」
そっちも説明しなくちゃいけないんだな、とアルは頭を抱えたくなった。
宴が解散され、一部は残っていたが、アルはようやく解放されて近くの宿屋にやってきた。ロックベルの人々も一緒だ。家族同然の付き合いをしてきた仲だから、アルにとってはありがたかった。それに、いずれにせよ、彼らには話さなければならないことがある。
「今日は本当にありがとう、アル」
頭を下げられ、いやあ、と少年は照れくささに肩を竦めた。
「しかし、アンタひとりなのかい? 他はどうした?」
息子と違い、ピナコは冷静だった。どうして一人で少年がこの街を訪れたのか、それが気になるようだった。
「いや、…実は、そのことなんだけど…」
――こうして、アルは、自分がこの街へやってくることになったその経緯をようやく話すことが出来たのだった。日付はとうに変わろうとしていた。
エドの出奔については、「あの馬鹿」と小気味よいほどにこきおろしてくれたウィンリィも、領主がホーエンハイムを呼び出したこと、トリシャがアルを外に逃がしたことなどを聞くと、眉をひそめて黙り込んでしまった。
「その腕輪」
話を聞き終えた時、ピナコは静かに少年の二の腕の金の腕輪を示して口を開いた。
「巡検使の腕輪。本物以上に本物らしい腕輪だね」
「………」
ピナコはホーエンハイムの友人だという。だからなのか、アルが話している間中、全く驚いている気配がなかった。
「あんたに助けてもらったのは助かったんだが、…まずいね、あんたがここにいることがあんたの街の領主にばれるのも時間の問題だし、それ以上に、こっちの領主の耳に入るのが早いのが問題だ」
アルは困ったように溜息をついた。確かにあんなことをすれば目立っても致し方ない。
「皆に迷惑はかけられない。今夜のうちに出て行くよ」
「お待ち。まああたしの話をお聞きよ」
ピナコは目を細めて孫同然の少年に話し始めた。
「うちの今日の火事ね、多分、ここんとこうちに通ってきてた都の貴族の使いってのの仕業だと思ってんだよ」
「…ウィンリィの言ってた?」
「なんだ、あんたそんなこと話しちまったのかい? 他に誰にも聞かれなかっただろうねえ。まあ、どっちみち言っちまったもんはしょうがないが」
孫娘の早計にピナコは嘆息したが、起こるほどの事ではなかったらしく、そのまま話を進めた。
作品名:Alf Laylar wa Laylah 作家名:スサ