Alf Laylar wa Laylah
案外そちらが本心なのではないか、とアルは思ったが、それは言わないでおいた。藪をつついて蛇を出すこともない。
「…あのね…」
少年は目を閉じて、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「ボクらは、昔話を母さんに話してもらうのが好きだった。特に兄さんは冒険王の昔話が大好きで、いつか王様のジンに会いに行くんだ、ってずっと言ってた」
額にひんやりとした感触があるのは、リザがもう一度額を撫でてくれたものらしい。
「ふたりも一緒に、旅をしたの? 盗賊の宝物を見つけたり、人食いの島に行ったり、大きな鳥に肉の塊を持たせて鋼玉を手に入れたり…」
「そうね、一緒に行ったこともあるわ」
「俺も、ロバじゃ足りなくて財宝運んだことあるんだぜ」
人使い、いやジン使いの荒い人たちだったんだよなあ、とジャンは笑う。まるで昨日のことのような鮮明さで。
「イフリートって…どんなひと?」
兄の屈託のない笑顔をアルは脳裏に思い浮かべる。出発の前、不安など何もない顔で、けれど残していく家族のこと、自分のことだけが心配だとそう言っていた兄。リザによればエドは見事イフリートとめぐり合い、主となったようだが、それでもたったひとりの弟として兄がどうしているかは気になった。兄を主としたというイフリートのことが気になるのも、至極当然のことだった。
「どんな…、そうね…」
「わがままだな」
リザが考え込む間に、ジャンは遠慮なくはっきりと言った。
「そうね。わがままね。それから頑固で、皮肉屋で、意地っ張りで…」
ジャンの後を引き継いだリザの台詞に、アルは眉間に皺を寄せる。大丈夫だろうか、そんなのが相手で、と。しかし。
「でも約束は守るのよ」
「そうそう、それだけは絶対」
「約束は、守る…?」
ジャンとリザの苦笑のような、仕方ない、とでも言いたげな親しげな笑みが物語っていた。彼らの主がどのような性分であるかを。
――つまり、一言で言えば、自分の兄と似た性格をしているらしい。
アルは口元を押さえた。こみ上げる笑いはとまらなかった。
「それって、相性最高かも」
「そう、だな、エドとは似たもの同士で気が合うかもな」
封印されながらも周囲のことを視てきたジャンは、笑いながら請け負った。リザは不思議そうに小首を傾げたが、そうなの、と目を細めて微笑する。
「今頃、楽しく旅してるんだろうなあ、きっと」
まさかその似たもの同士たちが離れ離れになっているとは夢にも思わず、アルは呟いた。
人に姿を変えたロイは、呪い師たちと無用の争いを起こすのを避けるべく、気配も抑えて都の中を歩いていた。負けるとは欠片も思っていないが、騒ぎを起こしてエドを見失うことだけは避けたいのだ。
それに、都の中の瘴気はある特定の波形をもっていて、弱いジンにとってはそうでもないのだろうが、ロイのように力の強いジンには少しいづらい部分もあった。互いの縄張りを荒らすような、磁石の反発のような、落ち着かない空気があったのだ。ロイが気配を極力抑えたのにはそうした意味もある。入ってみれば、都の中は明らかにロイも知るある強力なジンの影響に満ち満ちていた。
「……」
だがロイは眉をひそめずにいられなかった。「彼」がこんな場所にいるはずがないからだ。
不審に思いながらも、ロイは歩みを進めた。結界の強い場所は、弱い方から潰していった。そのどこにもエドはいなかった。エドをさらった者も。
残るは王宮ただひとつだった。
エドは後宮に閉じ込められていたが、けして部屋からの出入りを厳しく監視されていたわけでもなかった。どうせここからは逃げられないだろうと見くびられているのが暗に読み取れて屈辱ではあったが、ある程度の自由が保証されているのはありがたいことだったので、屈辱は見ない振りをして宮殿の中を歩ける限り歩いてみた。指環のジンは案内役にしては知識が古すぎたが、それでもいないよりはましで、少なくともエドの心を強くするのには役立ったといえる。
適当に歩いていたら、中庭に数人の女性の集団がいた。何しろ後宮だから女性の集団がいてもまったくおかしくないのだが(男の集団がいる方がおかしい)、エドは思わず緊張してしまった。何しろ自分は男なのだからして。
しかし、相手というか、集団の中心たる女性はおおらかな人物であるらしく、エドを見つけると笑顔で手招きしてくれた。母親よりいくらか年上の穏和そうな女性で、ついつい、逆らうことも考え付かずにエドはそちらへ歩み寄った。そして、その集団が手招きしてくれた女性とそれに仕える、あるいは格下の女性たちの集団であることがわかった。これはもしかしてちょっとまずかったかも、とエドの背中を冷や汗が落ちたが、今さら逃げられるものでもなかった。
「新しくきた子ね?」
「は、はい」
「まあ、そんなに緊張しないでちょうだい。アーモンドのパイはいかが?」
「え、あ、…ありがとうございます」
エドはしどろもどろになりながら、差し出された皿から一切れのパイを受け取って口に運ぶ。
「…うまっ」
しかし正直な性格なもので、口に含んだ途端、その美味さに地が出た。しまったと思っても遅い。だが、女性はくすくすと笑っただけで、誰もエドの粗暴な口調を馬鹿にしたりしなかった。
「お口にあって何より。わたしが作ったの」
「えっ…! ほ、本当に? すごい!」
エドはついついキラキラした目を向けてしまった。相手が誰かということも考えずに。
淡い色の髪をゆったりと結って、実を飾るのは品のよい真珠の首飾りに耳飾り。身に纏う衣は白地に銀糸が精緻に織り込まれた上品なもので、少しの動きや陽光の変化で美しく輝いている。どう見ても高価な一品だった。ベルトや腕輪にいたっては言わずもがなである。
「あ、あのう、…わ、わたし、ええと、きたばかりで、お名前を存じなくて…」
一瞬の幸福からふっとさめたのは、その女性が全方位から見て身分の高いことを察した瞬間だった。もしかしてこれはとんでもないことをしているのでは、と遅ればせながら思ったのである。エドにしては殊勝な心がけだったが、…だがしかし、遅かったようである。
「わたし? あら、そんな、たいした女じゃないのよ」
ふふ、と気さくに笑う姿には気取りがない。だが品がないのとそれは同意ではない。彼女には確かに品格があった。
「殿下、そろそろ陛下がお渡りになるお時間では…」
「あら、もう? ふふ、あの人も甘いものに目がないから…、フルーツももってきてくれるかしら?」
殿下に陛下。
エドは目を丸くした。
目の前の女性は、王の姫という年ではない。ということは妻の誰かであろうが、殿下と呼ばれるのは、恐らく正妃のみだ。しかも陛下、が彼女の所にやってくるのだという。
「あ、あの、おじゃましましたっ」
エドは慌てて頭を下げて退出するべく踵を返す。しかし、女性はエドの衣服の裾を掴んで、引き止めた。
「いやだわ、まだ何もお話していないでしょう。来るといってもすぐにあの人が来るわけじゃないし、それに、顔は怖いけれどあれで気さくな人なのよ?」
作品名:Alf Laylar wa Laylah 作家名:スサ