Alf Laylar wa Laylah
攻撃の余波を避けていたランファンからも息をのむ声がした。彼女にしても驚きを禁じ得なかったのだろう。イブリースといえば地獄に住む魔王のことだ。それがなぜエドや目の前のジンにかかわってくるというのだ。
「ああ、言ったさ! だがおしゃべりはここまでだ、人間が!」
エドは舌打ちし、攻撃を避けながらぱちんっ、と手を打った。そして、屋上の床につける。ばりばりと音を立てながら練成されていくそれは、一瞬にしてエンヴィーの足元を崩した。ジンは空に飛び上がったが、それでもすぐにエドに襲いかかってくるわけにもいかない。
「ランファン!」
思いのほかもろかった床にもう一度舌打ちして隠密の少女を探せば、彼女は逆に、軽い身のこなしで床のがれきを蹴って無事に近くの木の上に移動していた。
ほっとした、そこに油断があった。無理のないことではあったが、隙を作ってしまったのは否めない。
「よそ見してる場合かァ、人間!」
「…っ!」
エンヴィー、そう名乗った青年の声がした。まずい、と思い腕を出したが間に合わない。
「………!」
エドは肩をエンヴィーの攻撃に吹き飛ばされ、そのまま屋上から振り落とされる。ランファンは息をのんで助けようとしたが、かなわない。一瞬ふわりと浮いた体は、まっさかさまに地上へ落ちていく。
だめだ、と思わず少女は目をつぶった。だから決定的な瞬間は見ることがなかった。
地上へ激突する、という瞬間、それでももがくように地上へ突きだされたエドの両手。その右手の指輪が淡く光り、地上へ落ちる寸前、落下速度がほんの少しゆるくなったのだ。それでも落下には違いないから無傷とはいかなかったが、即死はまぬがれ、エドは地面に転がった。しばらくは荒く呼吸をするので精いっぱいだったが、すぐにはっとして半身を起した。背中が痛かったが、無視した。
「…おっさん…?」
遠のきそうな意識の中で、エドは右手を持ち上げた。指輪の石には、もう光が感じられなかった。マースは最後の力を使ってエドを助けてくれたのだろう。それがわかった。答えは永遠に返らない。
「…っ!」
エドは指環を握りこんで、ぎゅっと体を丸めた。鼻の奥がつんとした。泣いてしまいたかった。冒険王を、イフリートの大事な親友を、エドは消してしまった。
「…ロイ」
無意識に呼んでいた。それまでよりも強く、もっと心の奥から。左指の呪印が熱を持っていったが、気づかなかった。それくらいにエドの心は外のことに意識が向かなくなっていたのだ。
「なんだあ、生きて…」
遅ればせながらに体勢を整えて降りてきたエンヴィーは、そして見た。
「…やっと聞こえたぞ、エド」
白い服が燃えてしまったかと一瞬思わせるほどの焔が現れて、さしものエンヴィーもそれに息をのんでしまった。けれどもすぐに焔は吸い込まれるように消えて、次の瞬間には、エンヴィーも知る、焔の魔神が現れる。イブリースでさえ一目置くといわれている存在。確かに身近にしてみるとその魔力が桁違いであることがわかる。
ぐらり、と地面が揺れるのをエンヴィーは感じた。恐らくここにいるすべての人間達が感じているだろう。
目の前のイフリートと、その主であるらしい少年を除けば。
「…ロ、イ?」
少年は恭しい態度で抱きあげられ、離れ離れになっていた相棒を見詰めた。その金色の目に、ふわりと涙が浮かぶ。
「どうした? らしくないが、怖かったか」
「ごめんっ…」
エドは唇をわななかせて、ロイに指を見せた。もう輝きを失ってしまった、あの古い指環の石、ロイの親友が封じられていた石を。
「……」
ロイは軽く目を瞠った。彼の目には、既に親友がそこにいないことは明らかだっただろう。
「ごめん、ごめん、ごめんっ…」
エドは泣きながらロイにしがみついた。ロイは、ゆっくりとその薄い背中を抱きよせ、ぽんぽん、と宥めるようにたたいた。他には何も言わず、ただ、あたりを見回し、それからようやく呆けたように立ち尽くしているエンヴィーを見た。
「…っ、…へえ、あんた、そういうのが趣味だったんだ…?!」
正面から見据えられ圧迫感は恐ろしく高いものだったが、それ覚らせるのも癪で、エンヴィーはせめてもの意趣返しとばかり唇を歪め、嘲笑を浮かべる。だが、結局ロイには何ら痛痒を与えることが出来ないままに終わる。
「おまえが私の主を傷つけたのか」
ロイは慈しみさえ感じさせる仕種でエドの擦り傷の残る頬を撫でながら、静かに尋ねた。
「そうしたら、どうしたっていうんだよ」
「歯には歯を、傷には傷を。同等の代価を」
ロイは静かに言って、エドを抱えたまま、人差し指をエンヴィーにつきつけた。途端に青年は後ろに吹っ飛ぶ。悲鳴さえない。あまりにも突然の攻撃だった。
「ロイ…?」
涙をひっこめようと、嗚咽をかみ殺して、気丈にエドは顔を上げる。その幼い顔に、ロイは自然と笑みを向けることができた。そして、泣きやませたくて、深い考えもなくその瞼に口付ける。エドはびっくりしたような声をあげて目をまん丸に見開いた。そうすれば涙が止まったようで、成功だ、とロイは笑う。
「おまえが泣くことはない」
ロイはそう言って、エドをしっかりと抱きしめた。そして、脳裏で行くべき場所を思い定める。会うべき人物――いや、人ではないが、会って話すべき相手を。
「つかまっていろ」
言うが早いか、転がっているエンヴィーには目もくれず、ロイはエドを抱えたまま転位した。目指す先は――玉座の間だった。
移動した先でようやくエドもわかったのだが、今や宮殿は半壊していた。その上なお、余震のように細かな揺れが続いている。地震などほぼない場所であるだけに、人々は恐慌に陥っていた。そのせいか、玉座の間にはたったひとりしかいなかった。
たったひとり、この騒ぎにも全く動じていない人物しか。
「ああ…やはり、崩れてしまったか」
隻眼の国王は、物憂げな様子で玉座の肘掛に頬杖をつきながら、泰然としたさまでロイとエドを見ていた。エドはもはや何が何だか分からず、ただ呆然とするしかない。だが、ロイは皮肉気に笑った。彼にはもう何もかもがわかっていたのだ。
「久方ぶりだな、イブリース。なぜこんな所に?」
エドは思いっきり目を見開いてロイを見上げた。だが、相棒は真っ直ぐに国王を見るだけで、何も答えない。
――確かに。
確かにエドも、彼を見た時はジンだろうと思った。思ったが、だがしかしまさかそんな大物だとは思いもよらなかった。だがロイにエドを騙す義理はないし、騙すにしても、何もそんな、地獄の王を騙ることもないだろう。ということは、彼はイブリースなのだろう。
ジャハンナムに住まう、悪魔の王。
「何、ちょっとした暇つぶしだ。おまえと同じでな」
イブリースは立ち上がった。
「…イブリース。何の術を使った? 随分力を抑えているようだが…?」
エドはただ呆然としていたが、ふと、ここに来て知ったいくつかのことを思い出した。
今の国王は一度王宮がジンに襲われた時にジンを撃退し、王となった。王は正妃を先の王の後宮から引き取った。一目惚れだと世の人は言う。そして正妃はといえば、本当に国王を愛している、いや、恋しているのだとわかった…。
「…ロイ、おろして」
作品名:Alf Laylar wa Laylah 作家名:スサ