Alf Laylar wa Laylah
「エド?」
イフリートは怪訝そうだったが、主に言われるままに少年をそっと床におろした。立った瞬間に打撲で眉をしかめることになったが、エドは気丈に顔を上げた。ロイは気遣わしげに眉をひそめたが、何も言わず、ただエドのしたいようにさせた。
「力を…抑えるのは、あの人と一緒にいかったから?」
まっすぐ見つめて問いかければ、魔界の王たるジンは沈黙を持って報いた。それが答えであるようにエドには思えた。
「エド? どういうことだ?」
「…均衡が崩れるって。ロイの魔力が強いから、こんな風に…あんたが魔力を抑えるために使った術が崩れるのが、嫌だったんだな」
「…賢しいことだな」
イブリースは嘆息した。それはやはり肯定だ。
「オレはあんたの邪魔なんかしないよ! ロイだって!」
エドは力いっぱい言い募った。
「もう遅い。もう潮時だ」
隻眼の男の達観した物言いは、ロイに自分の過去を思い出させた。自分も同じことを言ったのだ、親友に。だがあの男は笑って否定した。そんなことはない、いつか絶対にお前の前に現れる、そう言って、今はサヨナラだ、そんな風に別れた。そして彼の言うことは正しかった。それどころか、もう一度彼に会うことさえできたのだ。人間はジンより遥かに弱いくせに、絶対にかなわない強さを持っている。
「弱気なことを言うものだな。イブリースともあろうものが」
「む…」
イブリースの厳しい目がロイを振り向いた。気の弱いものならすくみあがっただろうが、ロイはその範疇には当てはまらない。
「言っておくが、私は忙しい。何しろ新しい主は好奇心旺盛で、世界中見て回るといってきかないんだ」
だろう、とばかりのぞきこまれて、エドは思いきり頷いた。そうだ、まだ何も始めていないのだ。
「だから、イブリースがここで何をしていようが、邪魔をする暇もないんだ」
晴れやかに笑って、ロイはそう言い放った。
「人間の一生は瞬きする程短い。一緒にいたいというなら、ここまでやってきたんだ、あと少しくらい同じように一緒にいればいいじゃないか」
ロイにはエドほどの事情がわかっているわけではない。もちろん、エドだって推測でしかないわけだが。だがとにかく、エドの台詞の端々から、イブリースが誰かと一緒にここに在ることを望み、そのために、世界中のジンの中で最も強大な魔力を少しでも封じたのだということは何となくわかった。同じジンなのだ。かつて相対したイブリースと今の彼の魔力の違いは、聞かずともわかった。ここまで封じるのは並大抵のことではあるまい。
それだけ、彼はその「誰か」といたかったのだ。
「二度と会うこともないだろうが、イブリース、こっちの世界もなかなか悪くないものだぞ」
「わっ…」
ロイは、エドを抱きあげながら楽しげに言った。それに、ようやく隻眼の男も頬を緩める。
「――知っているとも」
彼の脳裏には、人間の時間で今から二十年くらい前の映像が浮かび上がっていた。月のない新月の晩だった。魔導師が大がかりな召喚を行った。あまりにも退屈に倦んでいたイブリース、魔王は、配下のジンではなく、自らが地上に降り立ったのだ。
地上は明るかった。月もないというのに、それでも星明かりだけでも明るかった。そこで彼は見たのだ。まだ若き日の妃が、侍女仲間と水浴びをしているのを。一目見て、触れたいと思った。そんなことは初めてだった。
だから姿を変えて近づいた。だが驚いたことに、彼女は自分を殴り飛ばしたのだ。もちろん痛くも痒くもなかったが、気の遠くなるほど長い時間を生きてきて、そんなことはやはり、初めての体験だったのである。その時、イブリースの心は決まった。
彼は魔導師達を殺し、そして国王を殺した。すべてをジンの仕業として。いもしなかった王子になりかわり、人々の記憶さえ塗り替えた。ただひとつ、彼女の記憶を除いて。
子を生したのは、もしも彼女が子をほしがったからだった。いくら封じているとはいえ自分の魔力は人には毒にしかならない。だから、他の女で試した。ただそれだけだった。そして無理だと納得するしかなかった。女たちは、全員が死んでしまったからだ。子供だとて結局数えるほどしか生まれなかった。とてもではないが、彼女で試すことなどできはしなかった。残酷なようだが、己の欲に正直なのはジンの性としかいいようがない。
あとはもう、彼女が息を引き取るまでそばにいられればそれでいいと、そう思っていた矢先。焔の封印が解かれたのを感じた。イブリースの術は強力だったが、元の魔力が何しろ強すぎる。微妙な加減で押さえつけているのが些細な衝撃で壊れてしまうのは火を見るより明らかで、どうにか彼を再び封じなければと思った。それで、エドをさらったのだ。ジンと契約を結んだ相手を殺すことは、イブリースにも許されない。それはジンに許された権利だったから。イブリースは絶対の支配者というわけでもないのだ。
「…知っているさ。私だって」
人を愛したのだ、とは言わず、彼は瞬きの間に転位した二人の軌跡を意識で追う。さすがというべきか、イフリートは全く気配を残していなかった。だが、意地は悪いが妙に律義な男だから、約束は守るだろう。つまり、邪魔をしない、という。
「あなた…、キング!」
はっとしてイブリース、いや、キングという名をもつジンは足音のした方を振り返った。そこにはあの月のない晩に見初めた相手がいた。あちこち汚れているのはこの崩れた建物の中を勇敢にも進んできたからだろう。まったく、上品そうに見えても根はたくましい。
「どうした。私は無事だぞ?」
男は笑って、大股に妻に歩み寄る。ほっとしたような顔を見せる女とあと何年いられるか、それはわからない。しかし、最後の時まで一緒にいるのだとひそやかに誓って、その手を取った。
「…ここ…?」
転位の先の土地で、エドはぱちぱちと瞬きした。まず最初に感じたのが暑さで、次が、埃っぽいというか、古い匂いだった。
すぐにそこが遺跡だとわかれば、エドは驚いて相棒を見上げるだけ。
「クセルクセス…?」
行きたいと言っていたのを覚えていたのかと目を見開けば、ロイは
「どうした」とやさしげに目を細めた。そうしたら指環のジンのことを思い出してしまって、エドの目にもう一度涙がにじむ。
「…ごめん、…王様を、…あんたの、親友を…」
涙をこらえて唇をかみしめる小さな頭を、ロイはそっと抱き寄せた。
「――いいさ。あいつはきっと、君を恨まない」
「でも、」
「いいんだ。…もう会えないと思っていたのが会えた、それで十分だろう。それに」
ロイは、す、とエドの顎に指をかけた。少年は不思議そうな顔で小首を傾げる。ロイは続きはしまって、違うことを訊いた。気になっていたことがあったのだ。
「…ところでどうして女物を着ているか聞いてもいいか?」
「…、…! こ、これはっ、えっと違う、違うんだ!」
ロイはにやにやと笑いながら、へえ、なにが、と意地悪く聞いてくる。エドは目を白黒させて、いや、だから…としどろもどろになる。
「だから…さらわれて、その、こ、後宮に、閉じ込められてて…」
「イブリースに?」
こくりと頷く。何とも気恥ずかしい。ふうむ、とロイは考えるような声を出した。
作品名:Alf Laylar wa Laylah 作家名:スサ