ティル・ナ・ノグ
布製とは思えない精巧なつくり。それは羽を持つ小さな妖精の人形だった。
「なんだ、これ…」
呆然としながらも受け取って持ち上げてみる。そうしたら、ロイは片手だけ頬杖をついて微かに笑った。ほんの少し、機嫌をとるような顔だった。
「姉さんたちは結構こういうの喜んでくれるんだけど、だめか」
「いや、っていうか…だって布から…よく出来てるな」
ためつすがめつあちこちから眺めて、エドワードは感心したように返した。そうしたら安堵の吐息。
「笑えよ」
「え?」
何を言われたのかよくわからなくて、エドワードは目を瞠った。けれどロイは真面目な顔をして、なんでもないことのように繰り返す。
「もっと笑えって。笑った方が可愛い」
「…はっ?」
今度はエドワードは目を丸くした。ロイはほとんど水になってしまったグラスの中身を吸って、さらりと口にした。
「だっておまえ女じゃないか、やっぱり」
「――っ、お、おい、言いがかり…」
ロイはグラスを置いてエドワードの方に身を乗り出した。同い年の少年にそこまで近づかれた覚えはとんとなく、大人の男とは違うけれど子供とも違うその不思議な存在が近づいてくるのをぼんやりと見てしまうエドワードがいた。大佐に似た面差しの、けれど少年のロイは、エドワードの目を真っ直ぐに見ながら、さきほどの布人形をぎゅっと握りこませた。少しだけ強引に。
「最悪の想像なんていくらでも出来るだろ」
「?」
「でもそれって起こらなければただの可能性でしかない。それで、それが見えてるものなら怖くはない。避ける方法を考えればいいんだ」
「可能性?」
ロイはエドワードの手から自分のそれを離して頷いた。
「なんだってそうだ。手段があれば悪用する人間はいなくなることがない。なんでも、いつだってそうなんだ、いたちごっこで」
言いながらも、少年はそのことに特に苦悩や苛立ちは感じていないようだった。むしろ、それを乗り越えることにこそ意義を見出しているかのような。
「だけど俺達は馬鹿だから。失敗しないとわからないことだってあるだろ? そういうのだってあると思うけどな」
「失敗しないとわからないこと…」
エドワードの肩が無意識に強張る。
「あー、…うまくいえないな。でも、これだけは確かだ」
「なんだよ」
「その四つの宝物に使う奴を選定するものがくっついてるのは、いいやつにいいことに使ってほしいからだとしたら、結局、初めから悪い方に使おうって作るやつはあんまりいないってことなんじゃないか」
じゃあ武器はどうなんだ、と反論しようとして、エドワードはやめた。猟師は銃を持つが、それは獣を撃つためだ。そして獣を撃つのは己の生活を守るためである。その相手が獣であるか人間であるかの違いを単純に論じることが出来るだろうか。そして憎悪が介在しない純粋な命の遣り取りを、罪悪という観念で定義づけられるものなのだろうか。
そんなことはできない、エドワードもそう思わざるを得なかった。
人間の身を守るための銃を作った人間を、殺戮兵器を作ったとして批難することはできないのだ。そして科学者や技術者は時として好奇心のために良心を置き去りにする。その欲求と衝動だったらエドワードにも覚えがある。悪意があって始める研究なんてほとんどない。
「姉さんたちは錬金術師じゃないし、理論とか理屈とか、公式とか、そういうのは何も知らない。でも魔法を使う」
ロイは笑って告げた。
「姉さんたちが笑うと皆喜ぶ。そういう魔法は、女の方が得意なんだってさ」
「あのなあ…」
なんと言うべきかとエドワードが口ごもったら、ロイは伝票を持ち上げて先に立った。あまりにも自然な動作で、エドワードともあろう者が一瞬見逃してしまった。慌てて手を伸ばしても無駄だった。伝票は意外と高い場所にあって、エドワードをひらりと避けるのだ。
「あ、おい!」
「さらに、女を笑わせる魔法は男じゃないと使えないんだそうだ。まったく、世の中って女につくづく都合よく出来てるもんだよな」
「何言ってんだわけわかんねえな、いいからそれよこせって」
「だめだ、何のためにあれだけメニューを見たと思ってる」
「はっ?」
ぽかんと目を見開いたエドワードに、ロイは独り言のようにしみじみと呟いた。
「今日が給料日で本当によかった。女と割り勘なんて、知れたらマダムに死ぬまで馬鹿にされるに決まってる」
一体彼の母親はどんな女性なんだ、とエドワードは一瞬呆気に取られた。しかしその一瞬を彼は見逃さなかった。さっさと二人分会計を済ませてしまったのだ。
「こら、ロイ! 待てよ!」
追いかけても既に遅く、早く行くぞ、と声をかけられ話をそらされてしまった。
「給料日ってなんだよ」
あの屋敷に戻る道すがら、エドワードは聞いた。口を尖らせたのはどういう顔をしたらいいかわからなかったからだ。まさか奢られてしまうなんてどうしたらいいか。これが年上の相手ならいざ知らず、同い年に奢られるなんてプライドが許さない。
――それに、ロイはエドワードを女と言った。正直どういう態度をとればいいのかわからなかった。
だがロイはまったくそういったことに頓着しないらしく、ああ、とかわらぬ調子で答える。
「マダムの店でアルバイト。ちょうど秋から学校だからな、それまで働くといってある」
「ああ、そういうこと…、っていうか、なんでオレのこと女とかいうんだよ、おまえふざけんな」
ロイは眉を上げて驚きを示した。そして足を止め振り返る。
「でも、女だろ?」
今日は暑い、というのと変わらない当たり前の口調で彼は言った。
「違う!」
エドワードは暑さにも蝉の声にも負けずに言い返した。だがロイは首を傾げた後、唐突にエドワードの手首を引っつかんだ。そうして引っ張られたら行き着く先はロイの腕の中で、そこまで近づくと同じように童顔に見えても少年の方がエドワードより背も高く(見上げるほどではないけれど)体つきもしっかりしていることがわかった。どうも着やせするらしい。
「ほら、やっぱりそうだ」
くん、と彼はエドワードの耳元で鼻先を動かして、それから自信たっぷりに断言した。対してエドワードはといえばあまりのことに言葉も息も止まってしまう。こんなに近くに誰かに近づかれたことはない。
「いい匂いがする。男なら汗臭いだけだ」
そんな判定方法があるものか、と思ったけれど、息を吹き返したエドワードに唯一できたことはといえば、思い切り相手を殴り飛ばすことだけだった。
先に立って歩くエドワードの後ろで、いや悪かったって、とあまり反省していない口調でロイがさっきから謝っている。協力を取り下げないだけありがたく思え、とばかりエドワードは無視を貫いている。
だが元々さきほどまでいたレストランはその前にいた公園から歩いて十分程度の距離にあり、公園は屋敷から歩いて五分くらいだった。ということはそんなにも旅路が長いわけもなく、ふたりは古ぼけた先ほどの屋敷に辿り着いてしまう。
先ほどと変わらず、オレンジの花が門柱に溢れるように絡みついていた。
「…秘密にしろ」