ティル・ナ・ノグ
何となく残念そうな顔の少年は無視して、エドワードは窓辺に近寄った。そこは書斎のような部屋で、さほど広くはないが本棚があった。何かヒントになるようなものはないかと、特に深い考えもなく近づいたのだった。
「ここに何か書いてあったらいいんだけどな、誰かの日記があったりとか」
「そんな都合のいいことあるわけ、」
少年のぼやきにエドワードが呆れた瞬間だった。まさかその声が聞こえたわけでもあるまいに、書斎の机の上に立派な綴じノートが現れたのだ。
つぶさに見ていた少年少女は固まった。
「…今これどこから落ちてきた?」
「あっ、ば、バカ、近寄るなって、なんか変なんだったらどうすんだよ!?」
一瞬の呪縛からさめると、ロイは興味津々にそちらに近づいた。対してエドワードは一応注意を喚起して部屋の中を見回した。
「変っていうなら今が十分変なんだ、もう驚かない」
「まあそりゃそうだけど…」
ロイの言い分は尤もなものだったので、エドワードもそれ以上は制止しなかった。
「…エド」
少年はまず指先でノートをつついた。特に何事も起こらなかったことに軽く息を吐いて、彼はとうとう手の上にノートを持ち上げ、ぱらぱらと開き始めた。そうしてしばらくはノートを検分していた彼だったが、不意に顔を上げるとノートを差し出してきた。頷いて、エドワードはそれを受け取る。
「…日記?」
これではまるで、誰かが「日記があったりとか」というロイの言葉を聞いていたようだ。背筋がぞっとして、エドワードの手が震えた。
しかしロイは何かを考え込んでしまっている。日記によほどのことでも書かれていたのだろうかとエドワードも読み進める。
「…ここを示すのにちょうどよいのは、砂漠の逃げ水だ」
エドワードは目に付いた一文を読み上げた。ロイは天井や窓を見ている。やはり屋敷の中はひんやりとしていた。寒いということはないが、さほど暑くはない。汗ももうひいていた。
「近づけば逃げ、遠ざかれば見える。そこにあるようでなく、ないようである。…なんだこりゃ、謎々か?」
エドワードは日記から顔を上げた。しかし少年は思案顔をしている。
「ロイ?」
同じ名前でも年が近ければこんな風に気安く呼べるのだな、とどうでもいいことを考えながら、やっぱり目の前にいるのは自分が知る、大佐のロイ・マスタングの少年時代なのではないか、と再び思う。いや、そうだったらいいな、と自分が思っているのだと気づいてしまったというのがより正しい。そして気づいたらやけに鼓動が早くなる。
たとえばもしも、彼が自分と同じ年だったら。こうやって友達のように過ごせたのだろうか、あるいは、もっと、…
何を考えているのか、とエドワードは頭を振った。今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「エド」
「んっ、な、なんだ」
「…? 何驚いてるんだ?」
物思いが読まれでもしたかと慌てたら変な声になってしまったエドワードに、ロイは眉をひそめる。なんでもないとと手を振れば、あまり信じていない顔をしていたが、とりあえずそれ以上突っ込まないことにしたようで、まあいいけど、と流してくれた。エドワードがほっとしたのは言うまでもない。
「この家自体、練成物ってことはないよな」
「…何のためにだよ」
「まあ家だから住むんだろうけど…」
「それで? これがほしいな〜、って言ったらぽんと出てくる家? そりゃ便利かもしれないけど、じゃあなんで人がいないんだよ」
「………」
「な、なんだよ」
黙りこんでしまった少年に息苦しさを覚えて、エドワードの声が少々揺れる。勝気な瞳がわずかに揺らぐのを見て、少年の整った顔が上下した。
「エドが着る女物の服があればいいのにな」
「はぁっ?」
エドワードは居心地の悪さも忘れて声を張り上げた。だが、どさ、と背後で何かが落ちた音を聞けば固まるしかない。振り向くにも振り向けずに固まっていたら、おお、と呟いた少年がすたすたとそちらに向かっていき、何かを拾い上げた。
大体見なくてもそれがなんだか想像がついてしまって、エドワードはますます振り向きたくなくなった。だが、エド、と呼ばれて渋々振り向く。そして案の定、彼の手にあったのは――、
「エド、ひとつわかったぞ」
「なにがだよ…」
白い、クラシックなドレスを渡されながらエドワードは呻いた。
「この屋敷の主というか、なんだかわからないが、彼か彼女は中世の趣味で生きているらしい」
「………」
真面目な顔で断言した少年に、エドワードはがっくりと肩を落とした。
「このギャザーの寄せ方といい、服のデザインは今よりもっと昔の感じじゃないか?」
少年の妙な詳しさにどうコメントしたらいいかわからず、エドワードは無言でドレスを広げた。時代考証はわからないが、とりあえず少女めいているとしかいいようがない。
「ところで着ないか?」
「なんでだよ!」
「だって折角出してくれたのに」
「…………!」
エドワードは両手で頭を抑えて絶句した。何かを言ってやりたかったが、何を言えばいいのかさっぱりわからなかった。
エドにぴったりのサイズで出してくれたかどうかわかればこの家の秘密にまた迫れるかもしれないぞ、と前向きに迫られ、なんだかもう色々なことがどうでもよくなったエドワードは、ロイに言われるままにそのドレスに袖を通してみることにした。一度決めれば思い切りのよいエドワードだ。特に予告もなく上着のボタンを外したら、逆にロイが慌てた。
「俺は外にいるから」
「え、」
目を丸くしたのはエドワードだ。上着を脱いでも下にタンクトップを着ている。ズボンは脱がなくても上からかぶればいいだろう、くらいに思っていたから、気を回されて初めて動揺した。そういえば自分は女で相手は男だった。いくら子供というか、少年と少女とはいえ。
「…ま、まあでも、機械鎧もあるしな!」
動揺を鎮めるべくエドワードは誰にともなく呟いた。
少女の着替えを待ちながら、少年は真剣な顔で腕組みをしていた。楽しんでいるように見えた彼だが、どうせなら楽しんでいた方が気がまぎれるというだけの話で、事態の深刻さを憂いていないわけではけしてなかった。
「1914年…29歳か」
14年後の自分など容易に想像はできない。死んでいなければ生きてどこかにいるのだろうが、何をしているのだろう。というか自分が1900年に帰れなかったら、そもそもこの時代に29歳の自分は存在しないだろう。
「…ん?」
パラドックス。
彼の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
そして鍵は等価交換だ。ひとつのものはひとつのものとしか等価になりえない。ということは、もしも時間的な距離を飛び越えてロイがここにいるのだとしたら、同時にまったく同じ存在であるこの時代のロイは存在できないのではないだろうか。世界はまるで無秩序のようで実際はそうではない。「存在」の定義は難しいが、ロイと同じ存在はロイしかないのだから、ロイが「ここ」に存在するためのスペースなり何なりというのは、ロイ一人分でしか購えないのではないか…。