ティル・ナ・ノグ
しかしこの説を採用するとしたら、少なくともこの時代にロイは生きていることになる。色々と政情不安だから、生きていられるならまあまずは重畳、と考える。彼はそれなりに前向きな性格だった。
「ロイ」
うろうろと思考を巡らせていたら、書斎めいた部屋の中から声がした。着替えが終わったのかもしれない。
「終わったのか」
「うーん、たぶん…」
「はあ?」
自信なさげな声に眉根を寄せつつ、ロイは声をかけてドアを開けた。そして軽く息を飲んで目を瞠った。
エドワードはなんだかんだで律儀に服に腕を通したらしい。だがしかし、背中のボタンが留められなかったらしく、妙に後ろが開いている。ロイは溜息をついた。
「留めようか?」
「ああ、うん…でもそこまでして着なくても」
「ここまで来たら全部着てみせてくれ」
「なんで」
「見たいから」
ストレートに言えばエドワードは沈黙した。ぶすっとしているように見えるが、耳の先が赤いのをロイは見逃さなかった。
「じゃあ、留めるぞ」
答えを待たずロイはエドワードの後ろに回りこんだ。そして、はっと息を飲む。
背中のボタンで留めるデザインの服は、首まで襟が覆っているのだが、少女は背中の半ばでボタンに降伏したようで、つまりそのあたりからはエドワードの素肌が見えていたのだ。
白い肌にどきりとした。それは本当だ。だがそれだけに息を飲んだわけでもなかった。肌以外にも見えていたものがあったのだ。つまり、右肩の機械鎧である。
「どうかしたのか?」
ロイはエドワードの後ろにいる。だから、ロイが一瞬躊躇ったのに気づかなかったらしい。ロイは一度首を振って、静かにボタンを留め始めた。
「なんでもない。ボタン、多いな」
「だろ? めんどくさいよ、この服…やっぱり服は男物がいいな、動きやすいし」
エドワードは嘆息した。
だが少年は背後から少女を眺めて、でも似合っているな、と思う。
「…だけど、エドのお母さんが約束しなかったら、今頃そういうの…もう少し今風の服なんだろうけど、そういう服を着て育ってたかもしれないんだろ」
「げー、信じられない、ってか想像できない」
「でも、この先もずっとそうやっていくわけにもいかないんじゃないか? っと、ボタン留め終わったぞ」
「サンキュ。…ずっと、って? 何が」
エドワードはくるりとロイを振り返り、きょとんとした顔で小首を捻った。ふわりとした裾が一緒に翻り、ロイの目を奪う。
「だから…、一生男のふりをするわけにもいかないだろ、って」
「なんで?」
「なんでって」
不思議そうなエドワードに、ロイも絶句するしかなかった。なんで、なんていわれる方が「なんで?」だ。
「いや、だって、…そうだろ? これから先大人になったら、いくらなんでも誰も男だなんて思わなくなると思うけど」
小さな子供でも相手にしている気分になりながら、ロイは噛んで含めるように説明してやった。だが、それでもエドワードはぱちりと瞬きするだけだ。
「別に、そんなのはそのとき考えればいいし」
「…まあ、そうだろうけど」
「それに、誰に何を言われてもオレはオレだから。なるようにしかならない」
あっけらかんと言い切った少女の伸びやかさに結局はロイは降参した。小さく溜息をついて、折角似合うのに、という心の声はそっとしまいこんで。
探検はあらかたし尽くしてしまっていた。そして、書斎には書籍という情報が詰まっていた。以上のことから少年と少女は書斎に留まり情報を整理し始める。
最初は不気味だった屋敷だが、割り切ってしまえば便利そのもので、水がほしいといえば水が出てくる。喉の渇きを感じることはなかった。
「妖精っていえば」
ぱたん、と本を閉じながらロイは思い出した風情で口にした。しかしよほど集中しているのか、エドワードからの返事はない。寝てるのかなと見上げて、少年は息を飲んでしまった。
スカートの人には席を譲るよと強引に座らせたクラシカルな椅子の上、白い古風な服を纏った少女は人形のようだった。そうしているといよいよ少年には見えない。伏せられた睫に、金色の瞳が鈍く光って沈んでいる。
「……」
――本当は。
ロイは昼前のことを思い出す。
本当は、目が覚めてエドワードを見たとき、エドワードが妖精なのかと思ったなんて言えない。
不思議な光を追いかけて飛び込んだ屋敷には何もなく、走り回っているうちに光がはじけて、気がついたら玄関の前に倒れていた。そして、それを起こしてくれたのがエドワードで。
驚いた。金色の目なんて初めて見たのだ。とても綺麗だと思った。一目で好きになった。
さらりと金髪が揺れる。触れたいと思った。だがそんなことできるはずがない。環境のせいもあってロイは知識としてなら早熟なところもあったが、逆に反面教師といおうか、そうしたことに潔癖な部分もあった。
「…なに?」
どのくらいじっと見つめていたのだろう。エドワードが不意に顔を上げた。そしてただ不思議そうにロイを見ている。
今まで周囲にいたことのない、いや、周囲どころかきっと探したってなかなかいないであろう少女だ。男として育てると母親が「妖精」と約束したから少年のふりをしているなんて昔話でもなければ想像がつかない。錬金術師というのも滅多にないだろう。そもそも、セントラルで見かける少女たちならそんなことよりも流行の服装や若手の舞台俳優に夢中になっているのが普通で、少女というのはそういうものなのだと何となく漠然と思っていたのに。
幼い恋のひとつもして、ともだちとさざめきあっている、そういう少女しか知らなかったのだ。別にそれが悪いとは思わないけれど、とにかく、エドワードが彼女たちとまるで違うことは確かだ。そしてそれをロイはおかしいとも不愉快だとも思っていない。
「…いや、…」
「なんだよ、変なやつ。ほんと大佐みたいだな」
エドワードは首を反対側に傾げた後、ひとりごとのように呟いてまた紙面に視線を戻した。だが、ロイはその上に手を置いて邪魔をする。
「なんだよ」
「大佐ってさっきも言ってたな。その人、エドの何?」
「何って…」
エドワードは少年が何となく苛立っているように感じたが、理由が思い浮かばなかったので眉をひそめて返す。
「どうでもいいだろ、そんなの。それより手どけろ、読めないだろ」
「どうでもよくない」
「なんなんだよまったくわけわかんねえな…、大佐は、あれだ、ええと、雨の日無能で」
「は?」
「じゃなくて…、そうだな、オレの、なんだ? 後見人、みたいな?」
「後見人?!」
ロイは目を見開いて声を上げた。
「なんだそれ、軍の大佐が後見人て…エド、お嬢様なのか?」
「はぁあ? なんでそうなんだよ、大体あいつにそんな面倒みてもらった覚えないぞオレは!」
これをもしアルフォンスが聞いていたなら、なんて横暴な、と眩暈を感じたかもしれない。そして大佐の部下達が聞いたなら、哀れさに泣いたかもしれない。