ティル・ナ・ノグ
第二幕 LOOP
「うっ…わああ!」
高いところから放り出されるようにして転がり出た場所は、人が武器を持って駆け巡る戦場だった。エドワードにとっては驚愕の出来事だったが、戦場にいた他の人間にとっては、子供が一人現れたことなど目に付くほどのことでもない。
押しつぶされそうになってごろごろと転がる。そうして、恐らくはその兵士は親切だったのだろう、こんなとこにチビがいるんじゃない、とエドワードに怒鳴った。気づいてくれただけ彼は親切だったのに違いない。だが、その親切は適切に報われることはなかった。
「子供がいる?!」
「おいチビ、家はどこだ、後で送ってやるからどっかに」
「なんだ、アメストリスはこんなチビガキの手を借りんと戦争も出来ないのか?!」
ぶちっ、と何かが切れた音は幸いにも兵士達には伝わらなかっただろう。聞こえたのは、乾いた、手を打ち鳴らす音だけだったはずだ。そして。
どん、という腹に響く重低音。それからおもむろに立ち上ったのは光の柱。戦場中の人間が、手を止めてそちらを見た。まるで星でも落ちたかのように、強い光の柱が立ち、それを中心に地面が陥没を始めていた。当然、その周辺にいた人間などひとたまりもない。
蜘蛛の子を散らすように逃げていく兵士の中、たったひとり、小さな人影が柱のすぐ近くにいた。
赤いコートが風に翻る。金髪がばさばさと揺れ、光の照り返しを受けていよいよ輝く。金色の瞳は洗浄を睥睨する。人ならざるものとしか思えない有様に、双方が距離を置く。今は互いに戦っている場合ではない、と本能で覚る。
一時膠着状態に陥った戦場に、互いの退却命令が下る。どのみちどちらの軍勢も逃げ腰にはなっていて、特に指令など出さずともお互いが光の柱から距離を置いた。地面の陥没はやんでいた。しかし、光はそうそう弱まりそうもない。
一定ラインまで後退した各軍のうち、片方の青い軍服を纏った勢力から、一人の男が進み出た。奥から出てきたことを考えても、風格から判断しても、司令官クラスであることは間違いない。
自然と道を開ける兵士の中を彼は進み出て、たったひとり、その光の柱へと向かう。距離はそれなりにあったが、どちらの軍も手出しをすることなく固唾を呑んで見守っていた。射程距離からはすぐに外れて、男は悠々と光の柱へと近づく。
「あんた、司令官か」
柱がよく見える位置まで近づいたら、小さな人、子供が男を睨みつけるようにして問いかけてきた。よく響く声だった。
「そうだ。単刀直入に聞く。君は戦いに来たのか?」
男の声もまた、よく通る声だった。その声に聞き覚えがあって、エドワードは目を瞠る。面差しにもやはり「彼」と似たところがある。尤も、年齢は違いそうだったが。
「戦いなんてしない!」
「では、この柱を収めてもらえるかい」
エドワードは眉根を寄せた。咄嗟の練成だったが、どうもこの土地はもともとのエネルギーが強いのか、普段より練成が強力なものになっている。
「…やってみる」
もう一度掌を合わせて、エドワードは目を閉じた。
その後、エドワードは司令官に伴われて彼の宿営へと向かった。何しろあの強烈な練成だ。普通の兵士には、とても取り調べなど出来なかったのだろう。
――向き合ってみると、司令官にはエドワードもよく知る人の面影があった。そして、まるでエドワードのことをよく知っているかのように懐かしそうな目をしていた。
だが、決定的に違うことがひとつだけあった。片方の目が、眼帯に覆われていたのだ。怪我をしているのか、それとも病気なのか、元から損なわれているのか、それはわからない。だが気安く聞けることでもない。
「君は、…錬金術師か」
エドワードは迷った末、こくりと頷いた。幼い仕種に、男は優しげに笑う。およそ年齢は四十代といった所かと思われるが、なんともいえなかった。黒い瞳は吸い込まれそうに深く静謐で、じっと見ていたら、エドワードの頭はなんだかぼうっとしてしまいそうだった。
笑うと出来る目尻の皺は彼がそれなりに年齢を重ねた人間であることを示している。その年輪を無駄にしてこなかったからこその今があるのだろう、そう思わせる人物である。
「名前を聞いても、いいかい?」
エドワードは迷うように唇を開いたり閉じたりして、司令官を見上げる。ロイが…、大佐が年を取ったらこんな風かな、と思いながら。答えたものかどうかを迷う。何しろ先ほどまでは、十四年前の少年といた。彼もまたロイに似た、ロイと同じ名前を持つ少年だったが、今度がそれと逆の現象だったとしてもあまり驚かない。そんな気持ちもある。
「…エドワード」
大佐であっても、さきほどの少年であったとしても、エドワードがそうとわかれば何か反応するはずである。まして大佐の未来だったら、昔のエドワードを懐かしんでくれる、かもしれない。
だが司令官は「いい名前だね」と応じただけで、それ以上のことは何も言わなかった。やっぱり似てる気がするだけか、と心なし肩を落として、そして有益な情報を求めるべく尋ねた。
「…ここは、どこだ? アメストリス?」
「ああ。君は、どこから?」
「アメストリス!」
強く答えれば、男はくすりと笑った。まるで子供の扱いだ。悔しくて思わず唇をかみ締めれば、ふわりと頭を撫でられる。驚いてその手を跳ね除けたら、すまない、でもしょげているように見えたから、と怒るより先に謝られてしまった。
「とにかく、見ての通りこの戦場だ。数日、ここで待ってもらっていいだろうか」
「え?」
エドワードは男の言うことが理解できなくて、顔を上げ首を傾げる。なぜエドワードがここで待たなければいけないのだろう。しかし、男は苦笑して視線を合わせてきた。
「君は戦争をしにきたわけじゃないんだろう? それなら、君をここにおいておくわけにもいかないじゃないか」
「そうだけど…、それって、オレは捕まえられる、ってこと…?」
それは困る、とエドワードは眉根を寄せた。途方に暮れた子供の顔に、男は宥めるような笑みを向けた。
「そんなことはしないよ。だが何かの事件に巻き込まれているなら、保護するのは大人の仕事だろう」
エドワードは口を尖らせ「オレはガキじゃない」と主張したが、馬鹿にしたつもりはないよ、と返されてしまう。すまない、と謝罪までつけられては怒ることも出来なかった。
「…じゃあ、…あんたの名前、教えてくれ」
男はなぜか破顔した。
「ロイ」
「え?」
「ロイ、だ」
男はやはり優しげに笑って、名乗る。エドワードは目を瞠る。
「大佐…?」
思わず呼んでいた。彼の印象が、目の前の司令官に重なる。しかし、司令官は首を振った。
「その大佐は、私と似ているのか?」
「…うん、…多分」
エドワードは尻すぼみに答えた。やはり、同一人物ではないようだ。年齢的に今のロイより上だから、未来のロイという可能性も考えたのだが、十五歳の姿のエドワードに反応しないということは違うのだろう。…忘れられてしまったのなら、悲しい限りだが。
「残念ながら、私は大佐ではないのだよ」
「…うん」