ティル・ナ・ノグ
エドワードはこくりと頷いた。そして、不安がばっと押し寄せてくる。ひとりでこんな、どことも知れない場所に放り出されてしまうなんて。たったひとつ、放り出す時に元の服装に戻してくれたのだけはありがたいが、他には何も助かることはなかった。
そんなエドワードの不安を読んだわけでもあるまいが、司令官のロイは手を伸ばし、エドワードの小さな頭を撫でた。今度は払わずに、エドワードは撫でられるがままになる。大きな手がゆっくりと撫でてくれるのは優しい仕種で、なんだか眠気さえ覚えた。
司令官ロイは、本人が言った通り、エドワードを保護するつもりであるようだった。それは、彼の宿営に留めおかれたことからも知れた。どこの誰とも知れない、不思議な力を使う子供を他の荒くれた兵士達の中に置いておくのは危険だという判断なのだろう。見たところ規律正しい軍隊のようだったが、それでも何が起こるのかわからないのが戦場なのだ。
あの方にもセントラルに家族がいらっしゃるから、そう言って笑ったのはエドワードのために食事を運んでくれた兵士だった。腕章から衛生兵と知れた女性は、司令官の立派さについて誇らしげに語ってくれた。
彼が救国の英雄であること、彼にはセントラルに年の離れた妻がいること、まだ幼い子供がいること。国境を守る戦争が泥沼になることを恐れた上層部が、彼に直接陣頭指揮を執る事を依頼したこと、兵士達は彼を心から慕っていること――
「家族…」
衛生部隊の長である彼女(五十代バリバリのベテラン看護師、従軍経験複数あり)と一緒にならある程度駐屯地を回ってもいい、とエドワードは司令官のロイから許されていた。しかし忙しそうな彼女にそうそう付き添いも頼めない。結果、ロイの宿営でぽつんとしているしかなく、そうすると考えるくらいしかすることがない。暇だし何か手伝うよ、と言ったら、ありがたいな、何か考えておくよ、と彼は言ってくれたが、今のところ「何か」を頼まれたことはない。エドワードがここに飛ばされて丸一日が既に経過していた。アルフォンスはどうしているだろう、と思う。寝て起きたら元に戻っているというのも期待したのだが、そんな都合のいいことはやはり起こるわけがない。
毎日同じ服着るなんてやめなさい、と言われて軍服を与えられたが、着替える気にならずにエドワードは黒い上下を着たままでいる。勿論本音を言えば着替えたかった。しかしこの状況で服を脱げるほどエドワードは無謀ではない。
曲がりなりにもあの屋敷は東部の郊外にあった。その場にいたのも少年がひとりきりだった。だから着替えられたのだ。
「…大佐も」
ごろんと寝転がりながら、エドワードは呟いた。今が何年か、まだそれを聞いていないし見かけていない。だが司令官のロイが四十三歳だというから、大佐のロイに当てはめて考えたら十四年後の姿である。だから想像してしまう。
「そりゃ…四十三とかいったら、結婚…しててもおかしくないよな」
呟いてみてなんだか胸が痛んだ。ずきん、としたことにエドワードは自分で戸惑う。なんだろう。なぜ胸が痛むのだろう。
「奥さん…か」
彼の妻というのはどういうひとなんだろう。やはり綺麗な人なんだろうか。そこまで考えて、エドワードははっとした。そして誰もいないのに慌てて首を振る。違う違う、オレは何も考えてない、そう呟きながら。
――鋼の
目を伏せて思い出すのは彼のこと。大佐、ロイ・マスタングのことだ。彼独特の呼び方が彼の声でされること、それはエドワードにとって特別なことだった。いや、彼が与えてくれるものはなんだって常に特別だった。苛立ちだって、怒りだって。
「…たいさ」
少年と会った時も彼のことを思い出した。こんなに自分が彼のことを考えられるということに、エドワード自身驚いている。そんなにも彼を見ていたのだと気づいてしまったから。
アルフォンスはきっと心配している。怒っているかもしれない。ロイはどうだろう。彼は心配などしないだろうが、しかし…
――エド、
「…あいつ、そういえば帰れたのかな」
大佐のことを考えるのはもうやめよう、そう思ったら、あの、同じ名前の少年が屈託なくエドワードを呼んだ、その声が脳裏に蘇る。彼ははっきりとエドワードへの好意を示してくれた。それは色々な初めてを内包していて、エドワードは戸惑ったものだ。けれどけして嫌ではなかった。大佐のロイが相手だとどうしても最後に緊張が残ってしまうのだけれど、そんな気持ちも感じないでいられた。
「…あいつも、…」
彼もきっと、元の時代に戻れたなら誰か好ましい少女を見つけるのだろう。それはどんなひとなんだろう。
「……って、なんだオレは…乙女か…」
色々考えていたら、どうにも色恋めいた方面にばかり意識が向かうので、エドワードはぶんぶんと首を振った。今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「とにかく、…帰らなきゃな」
エドワードはポケットの中の小さな丸いものをやんわりと握りこんだ。きつく握ったらぱちんと弾けて消えてしまいそうなその、固体と液体の半ばにあるものは、あの屋敷の試験管に入っていたものに違いない。どうやらエドワードはあのひとつを持ったまま移動してしまったらしい。もしかしたら、ここへ顕れた最初の練成が強力なものになったのもこれの影響なのだろうか、と考えてもみたが、結局理屈はわからなかった。大体これがどういった練成物(で、あろうというのはもうほぼ決まっていた)なのかもわからないのだ。
しかし、とにかくこれは鍵の一つだろうと思っている。どこで使う切り札なのかはわからないが、それまでは大事にしなければ――、
「…ん?」
ふと、あたりが騒がしくなった気がしてエドワードは身を起こした。外を窺えば衛生兵があちこち駆け回っている。大敗とまではいかずとも、どうやらたくさんの怪我人が運び込まれているらしいことから考えると、前線で何かあったか。新兵器の投入とか…。
なにか胸騒ぎのようなものを覚えてエドワードは走りだした。
司令官のロイは、今日は前線まで出ている。相手方との交渉のためだと彼は言っていた。
人の流れを割って走れば、あの子は、と視線と声が時折エドワードを見舞ったが、ほとんどの人間がそれどころではなく駆け回っていた。それを幸いとばかり、エドワードはひたすらに走る。
そうして走っていって、少女は見た。
目を見開いて絶句する。どんな兵器が使われたのか、夥しい数の人間がそこには転がっていた。咄嗟にこみ上げた吐き気を抑えるようにエドワードは口を押さえた。
「――!」
それでも気丈にロイを探した。けれどもなかなか見つからなくて。もしもこの死体の中にいたらと考えたら血の気が引いた。
「…大佐」
無意識に呟いたのは彼を示す位。
鋼の、と少し皮肉っぽく、けれど笑いかけてくれた。その顔が過去の少年、そして司令官と重なった。未来の彼の傍に誰がいるのかわからない。自分は彼の傍どころか、どこにもいないかもしれない。けれどそれでもきっと、未来を守りたいと思うはずだった。