ティル・ナ・ノグ
過去の少年のようにストレートに言うことはできない。自分の感情はうまく掴みきれているわけではないと思う。だがそれでも、きっと、惹かれているのは本当で、自分をごまかすことなんて出来そうになかった。
「…たいさっ…!」
エドワードはぎゅっと目をつぶって叫んでいた。
叫びと止まった動きは敵を引き寄せる。だが、寄ってきた彼らは、それが戦場には不似合いな子供であり、数日前光の柱を突如出現させて戦況を一変させた人間であることに気づく。しかし気づいたところでもはやどうにもできなかった。
エドワードはぱしんと手を打ち鳴らし、地につけた。地面は唸りを上げて形を変えていく。集まってきていた兵士は悲鳴を上げて飲み込まれていくしかできない。
エドワードは練成するときあの虹色の物質を握っていた。これが賢者の石のように増幅器であるのかどうかはわからなかったが、どちらかといえばそれは、意図してのことというより、さきほどまでそれを確かめていたからというのが大きい。
しかしとにかく結果からいうのなら、それは大きな効果を練成に付加した。
大地はいまやエドワードを中心に裂け、あちこちで亀裂を作っていた。そのあまりの威力に、多くの兵士が武器を捨て腰を抜かしてしまっていた。それくらい凄まじいものだったのだ。
「…はぁ、っ」
練成の余波が戦場の端にまで伝わった頃、エドワードは肩で息をしながら無表情であたりを見回した。睥睨する金色の瞳は人間離れして見える。それだけで力を持つように。
「…ろ、…?」
司令官を探そうと首を巡らせた時だった。ぐらり、と身が傾いだような気がしたのは。それでも無視して駆け出そうとした瞬間、ふわり、と身が揺れるのを感じる。
だが倒れることはなかった。
「…まったく」
低い声がした。咎めているような、褒めているような。いとおしむような。エドワードを受け止めたのは固い大地ではなく、しっかりとしたたくましい腕だった。
「無茶をする」
「……ぃ」
吸い込まれそうな黒い目。それと視線があったとき、エドワードの緊張はほどけた。生きていた、その安堵がはじけたとき、ふっと意識が遠くなった。
戦場の中にしっかりと立った男は、赤いコートの小柄な人物をしっかりと抱き上げる。見回せば立っている人間は自分の他に誰もいない。攻撃を受けて倒れた人間を除けば、生ある者は皆逃げ出したのだろう。それは正しい判断に違いない。
「派手にやったものだな…」
大地は裂け、まともに歩くのも大変そうだ。ロイは腕に抱き上げた、青い顔をした子供――少女を見つめる。抱き上げる腕は痛んだが、ここで放り出すなどありえない話だった。
再び目覚めた時、エドワードはまたベッドに寝かされていた。そして、傍にロイがいてくれたのも同じ。だがただひとつ、彼が傷を追っていたことだけが違った。
「…!」
エドワードは瞬きの後そのことに――ロイの、頭に巻かれた包帯に気づくと、顔色を変えて起き上がった。エドワードも倒れたが、練成に異常な力を使いすぎた結果として倒れたのであって、外傷はない。意識さえ戻れば動いて辛いことなど何もなかった。
「大丈夫…なのか…」
エドワードは泣きそうな顔で手を伸ばす。だがロイに触れたそうなそれは、触れる手前でさまよっていた。男は困ったように笑う。
「大丈夫だよ。包帯が大げさなだけだ」
君は優しい子だな、と彼は言ってくれた。だが、その優しさがエドワードに涙をこぼさせる。
「どうした? エドワード?」
薄手のブランケットをぎゅっと握り締めて、エドワードは唇をかみ締めて嗚咽を噛み殺す。
「…どうした。私は生きている」
男は、我が子を抱きしめるような仕種で、そっとエドワードを抱きしめてくれた。背中を撫でる手は穏やかで、ますます涙が止まらなくなる。
「泣かないでくれ。どうしたらいい?」
面倒くさがらずにここまでしてくれるのは、彼が優しいからなのか。それとも、エドワードが錬金術師だからなのか。本当に未来のロイではないのか…。
エドワードの頭の中は混乱していた。傷を負った男の姿が、エドワードの知る大佐とぶれる。彼がこんな風に傷を負ったらと想像して、ぞっとしたのだ。
「…エドワード?」
少女は半ばロイの声を聞いていなかった。聞かずに、ポケットから虹色の例の物体を取り出し、掌に載せる。そして、物もいわずに顔を上げる。その金色の瞳は、人ならざるもののように煌いている。
「…あんた、皆を助けようとしたのか」
司令官が前線へ行くなどありえない。それでも彼はあの場にいた。それどころか、将軍でありながらこうして国境まで出てきたのは、兵士を見捨てないため、それしかないのだろう。
衛生兵の彼女が言っていた。彼の目が失われたのは、戦場ではなかったと。ある事件で、子供を庇って失ったという話だと。そういう性格なのだろう。
「エドワード…」
少女はゆっくりと掌を合わせた。
「…でも、あんたのことは、誰が助けてくれるんだ」
開かれた掌は、そっとロイに触れる。途端にぱあっと練成光が走り、ロイは目を閉じるほかなかった。――眩しいのだけが理由ではない。体に確実な変化があったからだ。
細胞から何かが作り変えられていくような奇妙な感覚が全身を駆け巡る。思わず手をエドワードのベッドにつければ、少女は口も開かず、そっと手を伸ばし、司令官の眼帯を取り外す。何を、と、止めようとして男は息を飲んだ。
「…み、える…?」
ためしに健在だった右目をつぶってみる。やはり、世界は見えた。そして、遅ればせに、体に負った傷のどれもが痛みを感じていないことにも気づき、驚愕に目を見開く。治癒練成なのだろうが、しかし、見えなくなっていた目が元通りになるなどとはありえない話ではないか。
…エドワードの金色の瞳は、驚愕するロイを見ていた。
「…あげる」
やがて子供は、音のない声で囁き、ロイの手にころん、と虹色の小さな石を落とした。黙って受け止めながら、男はじっと金色の瞳を見つめていた。その小柄な体は、石を渡した途端、末端から空気に分解されるように消え始めていた。
当然だ。このエドワードは、今ここにいないはずの存在なのだから。ロイは、そのことを十分に理解していた。だがだからといって無感動でいられるものではけしてなかった。歪んでしまった表情はそのためだった。
「これが、あんたを助けてくれるといいんだけど」
子供、いや、少女は、すうっと消えていく間際、綺麗に笑ってそう言った。
「………」
何も残さずに、現われた時同様突然に、エドワードは消えてしまった。まだそこに少女がいるかのように暫し動かず、言葉も発さずにいたロイだったが、一度目を閉じると、決別するかのように首を振り、小さく呟いた。
「…鋼の」
それは彼にとって懐かしい名前。
「……君は、こうなることがわかっていたのか?」
セントラルに残してきた家族、愛する妻が、なぜかこの戦場には必ず行けと念を押した。普段は「どうして戦争なんか行かなくちゃいけないんだ」と無理ばかりを言うのが、どうしたわけか。
完全に治った目を押さえながら、ロイは呟いていた。
――ロイの、29回目の7月24日の朝は、慌しく始まった。