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ティル・ナ・ノグ

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「そうなんです。きざついでに、キスを許して頂けますか、お母さん」
 ――お母さん、それは幼い子供を前にしての対比としての呼びかけだが、その時のロイの中ではもっと深い意味があった。
 この子をきっと守ります、幸せにします。そう、29歳のロイでは、その時代には既に死去している彼女に誓うことはできないのだから。本来であれば、けしてできないことだったのだから。
「…ええ、どうぞ」
 母親は瞬きののち、ロイに赤ん坊を差し出した。受け取ってその重みに愛おしさを感じながら、ロイは、そのすべらな頬に唇で触れた。赤ん坊がきゃあ、と高い声をあげて笑う。金色の目には今何が映っているのだろう、ロイが見えているのだろうか?
 トリシャにエドワードを戻しながら、ロイは理解していた。
 なぜ自分がこの時代に来たか、ここですべきことはなんだったかをだ。
「あ…!」
 目の前で若い母親は目を丸くしていた。そんな風に驚く顔もエドワードに似ていた。いや、彼女が似ているというのが正しいのだろうが。
 エドワードを母親の腕に戻す間、ロイは体の端から自分が分解されていくのを感じていた。そして戻りきったところで、ふっと全部がかき消えた。この時代から吐き出されるように、元の場所に引き戻されるように意識がさらわれていく。体が作りかえられていく。
 分解と再構築。
 幼い日のエドワードを救い、トリシャに会うこと。男として育ててほしいということ。どうやらそれがこの時代でロイが課せられた使命だったらしい。
「君の妖精は私だったのか」
 少年の夏の日、少女から聞いた話。母親が妖精と約束したから自分は男として育てられたのだ、という。
 この世の汚れを何一つも負わない赤ん坊の姿を思い出しながら、ロイは目を閉じた。あの子を守る、守らなければならない。それは危ないことをさせないとかそういった意味ではなく、あの子の魂が汚され、傷けられるようなことからといった精神的な意味も含まれている。
 泣かせないことは出来ないだろう。世の中には理不尽も不条理も山ほどあるのだから。しかしそれでも、手を差し伸べることはできる。助けることはできるのだ。
 再び現れる地平がどこかを考えながら、ロイはその瞬間が近いことを理解していた。彼は元に戻る。なぜなら14年前、少年はきちんと自分の家に帰ったからだ。明け方のことだったけれど、経過する時間が同じなのかどうかはわからない。
 夜明けの空にぼんやりとにじむ夏の花を見つめながら、その時彼は思っていた。いつかまたあの少女に会えるだろうかと。あれは夢ではなかったのだろうかと。
 きっと、それは彼の初恋だった。



 どんっ…
「…っ…」
 突然地面に吐き出されるように出現して、ロイは顔をしかめた。受け身を取る暇もなかったが、幸いにして下はやわらかい土と草だったから、さして痛みを覚えることはなかった。
「……、…!」
 頭を軽く振りながら身を起こせば、隣に誰かが転がっていることに気づいた。そして、すぐにその正体に。
 あたりは夜明けに近いようで、ひんやりと静まり返っている。転がった草にはたくさんの露がついてきらめいていた。空は東の方から薄青く染まり、まるで眠っているようなその少女の頬をいっそう白く見せていた。
「…エド、」
 金色の髪を撫でて、ロイはそっと膝に少女を抱きあげた。目覚める気配はない。
 ここは、ロイにとっては14年前の続き。少女にとっては地下室いの続き。
 今二人が倒れているのはまったくの空き地といった風情だった。振り返れば壊れた門柱があり、そこにはつる草が絡まっている。よく見えないがあれはきっと、オレンジ色の花を咲かせているはずだ。
 そして反対側には、建物など影も形もなかった。ぽっかりと何もない空間が不自然に広がっている。移動してしまったのだろう、きっと。
 ――14年前はセントラルにあり、昨日までは東部の郊外にあった不思議な家。まるで妖精の棲家のような。
 夏は不思議なことがよく起こるから本当に妖精の仕業かもしれないが、誰かが残した錬金術かもしれない。錬金術は魔法ではないけれど、原理が解明できなければ練成は魔法にしか見えない時がある。
「エドワード」
 ロイは優しく呼びかけて、少女の頬を軽くたたく。空は刻一刻と明るくなっていく。ひっそりと静まり返る妖精たちの時間は終わろうとしている。尤も、常若の国に住むという彼らに時間は関係ないのだろうが。
「……ぅ、」
 金色の睫毛が震えて、うっすらと瞳が開かれていく。それはやはり、圧倒的な黄金。ロイは知らず笑みを浮かべていた。
 ――君は知らないだろう。私は君と出会っていたんだ。君の頬にキスをして、君を守ると君のお母さんに誓ったんだ――
 彼は内心で思う。口に出すことはしない。けれども瞳にはいっぱいの愛おしさをこめて少女を見つめる。
 少女もまた、目を開いた後は何も言わずロイを見つめていた。何かをロイの目の中に探そうとするかのように。
「…たいさ?」
 やがて少女はそっと手を伸ばした。夢でも見ているような顔をしている。そしてそんな顔をしていると、はっきりとそれは少女なのだということを理解させた。
 黙って触れるがままに任せながら、ロイは、ああ、と小さく頷く。そうっと自分の頬に触れる手を上から捕まえて、そうだよ、ともう一度。そうしたら、エドワードの表情が安堵のそれになった。
「…目、あるな」
「は?」
「なんでもない。…オレ、…あれ…大佐、なんでここに…」
 エドワードは長く息を吐いた後、ぱちりと瞬きして身を起こした。その時ちょうど最初の陽光がさしてきて、彼女は眩しそうに目を細めた。けれどロイは、腕の中でその日最初の陽光を受けて輝く少女に息を飲んでいた。
「夜明けとかって、…まずい! アルに怒られる! っていうか、家がない?! なんでだ…!」
 しかし意識がはっきりしてきたらしいエドワードは賑やかに騒ぎ始めて、ロイの感動になどは気付かない。それがエドワードらしくもあり、ロイは笑った。彼の中でもようやく長い夜が明けたように思えた。確かに自分があの日恋したのはこの相手だった。ほんの一日に満たない短い間だったけれど、恋に落ちるのに時間など関係ない。それがまるで決められた定めであったかのように、彼は彼女に惹かれた。夏の日、同い年の少年と少女として出会った時に。
 そして今年は違っていても、その気持ちに変わりはない。いや、もう一度恋に落ちたというのが近いのかもしれない。
「鋼の」
「なんだよ、…っていうか、あれ? なんで大佐が…」
 ロイは目を細め、エドワードに笑いかけた。少女が目を丸くしてそんなロイを見ている。さっと頬に朱が刷かれたのを、ロイは見逃さなかった。
「妖精の家にでも行ったか?」
「なっ…え、なんで、大佐が…」
 やっぱりあのロイは大佐だったのか、エドワードの顔にははっきりとその疑念が表れている。
 しかしロイはそれには答えず、白くなっていく空を見上げた。
 長い長い7月24日はそうやって終わり、これからは何も知らない未来が始まる。傍らにいつまでこの少女がいてくれるかはわからないが、守ると誓った気持に嘘はないし、かわりもない。
「…なあ、大佐」
作品名:ティル・ナ・ノグ 作家名:スサ