ティル・ナ・ノグ
目だけをそちらへ向ければ、エドワードは手を落ち着かなげにさまよわせている。ロイは目を細め、何も言わずその手を捕まえ、握ってしまう。エドワードは息をのんだようだったが、嫌がったり払おうとしたりはしなかった。
――ロイがエドワードには言わず決意したことがあるように、エドワードにも決意したことがある。過去の少年、そして未来の司令官。あれらが皆ロイだったという保証はない。エドワードは夢を見ていただけかもしれない。けれど、あれもまたロイだとエドワードは思っていた。
「オレ、あんたのそばに、いてもいい…?」
ロイは驚いて目を瞠った。そして、本気か、というように少女を覗き込む。今はその白い頬を朝陽がばら色に輝かせている。
「…鋼の…?」
エドワードは、恥ずかしくてロイの顔を見られなかったけれど、それでも何かに誓うようにきゅっと握られた手を握り返した。この人の力になりたい。守ってあげたい。孤独な戦場に送りたくない。
司令官の姿を思う。頭に包帯を巻き、片眼には眼帯をしていた。
「…ああ。私も、居てもいいか? 君の傍に」
ロイは少しの間を置いて、ゆっくりと問い返した。エドワードはこくりと頷いた後、照れ隠しなのか唇を尖らせ、だってそばにいてくれないと守れねーし、と呟く。守る? と目を瞬かせたロイには「こっちの話」と嘯いて教えてくれる気配はない。
「さしあたって…どこかで朝食をとろう。そうだ、アルフォンスにも連絡しなければならないのではないか?」
「………」
エドワードは絶句してロイを見上げた。その顔はかなり途方に暮れたものになっていた。連絡もなく一晩を過ごしてしまったことをどう言い訳したらいいかと思考が止まってしまったのに違いない。ロイはくすりと笑い、エドワードの頭をなでた。
「一緒に、謝ってあげるよ」
途中までは一緒だったのだし、とは心の中で付け加えたロイだった。
コーヒースタンドから、ロイが最初にアルフォンスに事情を説明してくれた。
「鋼のは、妖精事件に巻き込まれていたんだ」
そもそもエドワードがアルフォンスと別行動になったのは、そのために支部から呼び出しを受けていたからである。あまりに帰らないので支部に問い合わせをし、もう帰ったと言われてぐるぐるしていたアルフォンスは、ロイのこの話に安堵のため息をついた。
『それで、大佐が助けてくれたんですか?』
そんなところだが、詳しくはあらためて、と外にいることを示せば、理解の早い少年は「わかりました」と了承を返してくれた。話が早いのは助かる、と思いつつ、ロイはエドワードに受話器を渡す。既にストーリーは決めてある。エドワードは妖精事件に巻き込まれた、だがロイに助けられた、だから帰れなかったし連絡もできなかった…、そしてこれから帰るところだ、という。
弟を騙すことにはかなりの罪悪感が伴ったが、しかし完全な嘘というわけでもない。エドワードは確かにあの錆びれた屋敷に入ったはずなのに、今朝目覚めてみたらどこにもあの家はなかったのだ。これも立派な妖精事件ではある。
中尉に連絡するというロイを残してエドワードは彼のおごりらしいホットドッグをかじっていた。これでおごられるのは、過去を入れたら何度目だろう。なんだか悔しい。
「…ロイ、」
ぽつりと呟く。大佐もあんな風に子供の頃があったんだよな、と思う。そんな風にぼんやりしていたから、コーヒーを冷ますことなくすすってしまって舌を出す羽目になる。
「火傷したか?」
「わっ」
そんな所に音も立てずにロイが戻ってきた。エドワードは咄嗟に手で口を隠そうとしたが、相手の方が素早かった。狭い丸いテーブルの上ひょいと身を乗り出して、彼はさっと少女の唇をかすめ取ったのだ。その、赤くなった舌先をぺろりと舐めて。
「――――っ!」
今度は取り返しがつかないほどにエドワードの頬が赤くなる。ロイはその向かい側、片腕で頬杖をつくと、「どうした?」なんてさらりと言ってくるのだからたまらない。他に思いつかなくて、エドワードは思いきりロイの足を踏みつけた。
だって傍にいると言ったじゃないか、という拡大解釈もいいところの言い訳をほざく相手を視界から締め出しながら、エドワードはちっとも引いてくれない暑さにまいっていた。
ロイからの報告で、ホークアイ中尉はほっと胸をなでおろした。消えてしまうとは思わなかったが、戻ってきたことにホッとしたのは確かだ。
そして、世界は何も変わっていなかった。つまりロイは、歴史を変えるようなことはしなかったのだろう。もしくは、あるいは、それさえも予定調和であったというのか。それはわからないけれど。
――それから程なくして、ロイの読みが当たり、人が消えた村については妖精事件に便乗したテロリストのグループが行ったことだと知れた。逮捕は実にスムーズに行われ、軽傷者が数人出た他には目立った被害もなく、一ヶ所に軟禁され、武器輸送のための作業を強制的に行わされていた村人たちは解放された。晴れて軍人たちには少し多めの休暇が振る舞われたことは言うまでもない。その恩恵にあずかった兵士たちが、マスタング大佐は大したものだ、とほめそやしたのも。
「しかし、だ」
書類をさばきながら、ロイは淡々と口にした。処理済みのそれらを確認していた副官は、何か、と顔を上げる。
「村人は帰ってきたが、それ以外の失踪者はまだ見つかっていない。完全な解決とは言えないのが、な」
「しかし、本当にただの失踪と言うことはないのですか?」
「さあ…」
ロイは肩をすくめた。確かなことは分からない。テロリストたちについては徹底した調査により行動を把握することもできたが、ただ消えた人々については依然何の手がかりもない状態が続いていた。やはり妖精はいるのでは、という噂が今もなくならないのにはそういう背景もある。ロイはため息をついた。彼はそこまで頑迷ではないが、やはり妖精というのは信じ難い。といって、あの不思議な家の存在を知っている身としては完全に否定するのも難しいのだが。
「今回のような便乗犯なら話はまた違うが、個人個人のレベルの失踪で事件性が低いとなれば、軍までは捜査が回ってくるわけでもない…だが、な…」
ホークアイ中尉は少し大きく咳払いをした。
「大佐が事件を憂えていらっしゃるのは大変立派なことだと思いますが」
「ああ…」
ロイは口元をひきつらせ、なんだろうかと副官に促す。なんとなく、何を言われるのかは想像がつかないこともなかったが。
「私にとっては、今、三日前が期限だった書類が箱単位で出現したことの方がよほど危機的です」
「…そうだな…」
ロイは目をそらして曖昧に笑った。
その年の妖精事件はそうして、夏が終わる頃には終息に向かっていた。しかし巻き込まれた人間たちの14年という奇妙な数字の符丁はもう一度巡ってくることになる。本当の解決は、その時、つまりは1928年を待たねばならなかった。
――1928年、7月、24日。
ついに完成した「それ」を前に、白い、少し古風な服を着た女性は手を組んだ。輝く頬を見ればそれが満足を示す仕種であることがよくわかる。