ティル・ナ・ノグ
今女性の前には、こぢんまりした、けれども趣のある屋敷があった。もしもその家を28年前の少年と14年前の少女が見たなら、あっと声を上げたことだろう。それこそ、彼らが夏の日に迷い込んだ家、そのものだった。
二十代らしき女性は金色の目を輝かせて、ふっと細める。
「…ここが、始まりだったんだな」
彼女がその古い屋敷を見つけたのは偶然だった。偶然、売りに出されていたのだ。誰も住む者がいなくなったというその家には妖精が出るという噂が昔からあり、昔ほどではないにしてもそういったいわくのあるのが好きな好事家たちに向けてそれなりの高額で売られていたのだが、ある資格のおかげで個人資産をうなるほどにもつ彼女にそんなものは大した金額ではなかった。
彼女はこの屋敷にたっぷりと時間をかけて錬金術の仕掛けを施した。これからこの家は「そこにあって、そこにない」まさに妖精の迷い家になるだろう。そして過去に出現し、少年と少女が出会う場所になる。
時間をさまようなど錬金術としても異端だが、これは全くの自前ではなかった。
数か月前彼女の夫を襲ったある事件が原因にある。
彼女の夫は高位の軍人で、そして彼女同様錬金術師でもある。その夫が、ある特殊機関に襲われたのは春先のこと。一斉検挙された彼らはオカルトにまみれた怪しい研究を昔から続けており、その中には妖精と不死の研究が含まれていた。時間の経過を極端に遅くすることで年をとらないようにする、命の時間を引き延ばす研究。その過程で彼らは多くの人間を犠牲にした。
14年前、妖精が見えた、といって失踪した人々。彼らは、その機関が行った実験、ある波長の光が見える人間は特殊な遺伝情報を持っている、という彼ら独自の論理に基づいた人間狩りの犠牲者だったことも明らかになった。失踪事件が当時終息に向かったのは、便乗犯による大型犯罪で軍が敏感になったこと(軍と彼らは当時大きな意味では敵対していなかったが、全くの仲間ということでもなかった)、実験によって集められた人間が思ったほどの成果を彼らにもたらさなかったことが大きい。
そして彼らは再び世の中を震撼させるような事件を起こした。連続幼児誘拐、殺人事件。もはや彼らの研究は常軌を逸していたのである。そして一斉検挙につながったのだが、彼らの一部は逃亡し、そして事件の指揮を執っていた将軍の命を狙った。
彼ら機関の名を「ティル・ナ・ノグ」、狙われた将軍の名は、ロイ・マスタングといった。
街中で襲われた彼は咄嗟に応戦したが、近くにいた子供と母親を庇い、正面から攻撃を受けた。結果彼は片目の視力をほとんど失ってしまった――
彼女はそのことが許せなかった。彼女の夫を傷つけた人間も、そばにいて守れなかった自分も。だが同時に彼の目に関しては実はさほど心配はしなかった。なぜなら彼女は知っていたからである。
彼の眼は、治るのだ。
過去から来た少女が、あるものをもって、錬金術を行使することによって。
そして彼女は理解した。「ティル・ナ・ノグ」の残した研究データ、そのほとんどは使えたものではなかったけれども一部にはっとするものを含んだそれらが、彼の未来のために、理想のために、ずっとそばにいるために研究を重ねていた「それ」を完成させる鍵となり、それが廻り廻って彼を救うのだということを。
なぜなら、彼女は翔んだことがあったから。ロイが入院し治療を受けている間、とても抑えきれずに機関の残党を捕らえに赴き、何があるかもわからずに練成した瞬間に一瞬過去に飛ばされた。すぐに吐き出されるように戻ってきたのだけれど、それは確信につながった。やはり、昔、出会った隻眼の男は夫だったのだ、と。そうであれば救いはある。彼は治るのだ。自分によって、自分が今の時代に作りだした練成物を、過去の自分が持ってくることによって。
「ほーんと、卵が先か鶏が先か、って話」
虹色の、望みをかなえる石。
それは彼女なりの「ダグザの大釜」であり、そして「リア・ファル」でもある。それは望みを叶えるに値する人間にだけその力を示す宝物。
夫はもう少ししたら戦場へ行くだろう。そして帰ってきた時、これを再び持って帰るはずだ、現代に。
女性はくすりと笑った。彼女だけは、妖精事件のすべてを知っている。過去に飛ばされたとき、彼女は幼い姉妹に出会っていたからだ。そして写真を撮られた。すぐに元の時代に引き戻されたからその後のことは知らないが、…妖精事件の発端となった五枚の写真、そのうちの最後は妖精がたったひとり湖畔にたたずんでいた写真だった。遠目でよく顔形のわからないその写真は、白い服を着た女に見えなくもなく、ロイに贈られたクラシカルなワンピースを着て夫の帰りを待っていたエドワードが、事件に逆上して殴りこんだ時もそれを着ていたのは確かなこと。
虹色の石は家に閉じ込めた。
金色の瞳を閉じて、彼女は手を合わせる。
「…ロイ」
そうして、屋敷の玄関に触れた。ぱあっと光が広がって、屋敷は跡形もなく「どこか」へ消えていた。
「あの子供、どこから来たんでしょうね」
何も言わずに帰ってしまうなんて、でもちゃんと帰れたのかしら、と心配半分怒り半分の衛生兵に、ロイ・マスタング中将は笑った。
「もちろん、無事に帰れたよ」
彼は笑いをこらえるのが大変だった。何しろ彼は知っているのだ。あの少女はあの後14年前に帰り、29歳のロイと出会い、そうして恋が始まる。いや、もはやどこが始まりなのかは判然としない。とにかく確かなことは、その日が今の二人につながる重要な日だった、ということだけだ。
今もエドワードは国を代表する錬金術師だが、戦場に現れることはほぼない。完全に、と言いきれないのは、未だにこの国が多くの火種を抱えていることが原因にあった。
そんな中で、彼女はこう呼ばれている。
?マスタングのクラウ・ソラス?
鞘から抜かれればその眩しさゆえに敵は攻撃もかなわぬうちに敗北するという、伝説の宝、光の剣。彼女のその黄金の髪と瞳、他の追随を許さぬ錬金術をして世の人はそう呼んだのだ。マスタングの、という枕詞は彼女が彼の傍を離れなかったことに由来している。
「知っているかい、妖精の宝物の話を」
「妖精ですか?」
衛生兵長はぽかんとした顔をした。司令官が口にするのには不思議な話題だが、何しろ奇跡の復活を目の当たりにしている。
――ロイは未だに眼帯をしている。目が治ったことは、まだ誰にも言っていない。さすがにエドワードをそれで探されても困るからだ。恐らくそれは、セントラルに戻った後にこそ起こったことにするべき奇跡なのだろう。どのみち過去の少女から受け取った宝物は今ロイの手にある。
しかしそれはそれとしても、戦場で負った傷のすべてが治ったというのは奇跡以外の何物でもない。そしてその奇跡がなされた時に錬金術師の子供が消えていた。誰もが関係性を疑ったが、誰も口に出さなかったのは、ロイへの信頼が篤かったからだ。
「ああ…、閣下の宝物」
衛生兵は一瞬ののち、奇跡の後でもあるし、もとからそういったエピソードが彼の身近にあることを思い出して頷いた。
「私の、というわけではないんだが…」