ティル・ナ・ノグ
最後に会った人物ということで、エドワードは捜査協力という名目で呼び出しを受けた。幸か不幸か、呼び出しをかけたのは東方司令部ではなかったが、しかし管区としては東方であった。後見人の耳に入るのは時間の問題と考えるべきで、それを思うとエドワードはなんだか気が重い。好きか嫌いかで分けるなら別に嫌いなわけでもないが、といってでは素直に接せるかといったらそうでもない。思春期などという言葉で片付けられるのは癪だし、絶対に認めるつもりはないが、後見人(と周囲には目されているし、実際に軍の中では保護者的な役割に当たるのは認めざるを得ない)は一筋縄ではいかない人物なのだ。だから彼にも責任はある。エドワードはそう思っていた。但し、身内にそれを話したら、意地っ張りの一言で決着してしまうのは明らかだったから、賢明にもその感慨について誰かに話したことはなかった。
弟と合流すべく宿に向かいながらも、エドワードの機嫌は悪かった。大体にして、妖精なんて信じるのは子供だけにしてもらいたいというのが感想だった。そんな非現実的なもの、いるわけがない。百歩譲っているとしたら、人間に至る進化の道筋で別の生き物へと別れた種、とでも考えた方がまだ現実的だ。…世の中ではそれは同じくらいファンタジックな発想なのだが、進化というファクターにエドワードの科学者的要素が見て取れる。科学とても、発想は時にファンタジーだ。
とにかくエドワードは最初の一報、妖精の写真にしても懐疑的に見ていたし、人が消えているというのにそんな不可解な存在に理由を押し付けようとしている世情に対しても警戒を覚えていた。子供らしくはないが、旅暮らしゆえ、綱渡りのような生活を続けているがゆえの防衛本能といえないこともなかった。
妖精は恐らく誰かにとって都合がいい。だから噂になる。この裏で得をしている人間がどこかにいるはずなのだ。
エドワードは考えるでもなく思い浮かべながら、暑さのせいか人気のない街路を歩いた。どこかの家の軒先から濃いピンク色の花が零れるように咲き溢れていて、夏なんだなとぼんやり思う。機械鎧は熱を持って暑い。そして機嫌の悪さの原因に思い至った。
確かに事態が面白くないのが一番だが、この天候のせいもある。とにかく暑い。暑さは思考力を奪い、情緒をも不安定にさせた。服が張り付くような足が暑い、どこもかしこも暑い。
「くそ、…」
だが理性を失う程ではない、というよりもエドワードの意識が強靭というのが正しいのか。とにかく水分を取るべきだと至極まっとうな判断を下し、エドワードはそのための場所を探した。飲料を売っている場所、公共の水道がある場所、飲料と共に一時の休憩を提供する場所。最後であれば一番ありがたかったのだが、そういった店は影も形も見当たらなかった。ただひたすらに住宅地であり、商店さえ見当たらない。こうなると味には期待できないまでも先ほどの支部でただの飲料をむさぼり飲んでこなかったことが悔やまれた。しかし、そんなことを言っていても始まらない。エドワードは嘆息ひとつ、宿を目指して歩みの速度を上げた。とにかく屋根のある場所に行くのが最上の判断である。
しかし。
宿までまだ距離もあり、涼を取れるような場所も無い。だがそれでもエドワードは立ち止まらずにいられなかった。
「…マジかよ」
ぼそりと呟く声さえ誰か他人のもののように遠く感じた。
エドワードは全身で「それ」を見ていた。
――視界の先には一軒の古い屋敷。そこそこに大きく立派な作りはそれなりの人物が居を構えていることを思わせるような。その屋敷の門は今開かれていて、両脇の門柱には蔦が絡まって何か花を咲かせている。オレンジ色の、花弁がひとつなぎになっている花。エドワードはその名前を知らなかったが、これも夏の花だと何となく思った。夏はいつも、強く鮮やかな色の花ばかり咲いている。白い花でさえ陽光を纏えばその豪奢なことといったらない。
そして今、そのオレンジの花が零れる先、ちょうど玄関に当たるのだろう場所の前にふわふわと白っぽい光が揺れていた。まるで生き物が動いているようなふわりとした、不確定の動き。だがそこにいるのは生き物ではない。朧に具象を為しているようにも見えなくはないが、大雑把に言うならそれは単なる光の塊である。
エドワードは息を呑んだ。非科学的なことを信じるつもりは毛頭ない。だがもしもそれが現実に存在しているのなら、それを見せ付けられてしまったなら、もはや信じるほかに術はない。
それでも往生際悪く頬をたたいたがやはり痛みがあり、…だがエドワードは根っからの科学者であった。気味悪がって逃げてもおかしくない場面で、前に進み、その光の中心へ真っ直ぐに足を進めたのだ。これはきっと誰でも真似の出来ることではなかっただろう。
「………」
エドワードは慎重に手を伸ばした。恐れはなかった。ただ、抑えがたい好奇心が突き動かすのみ。
「…っ?」
突然風が吹いた。突風は蔦を揺らし花を落とし、エドワードの髪を勢いよく巻き上げた。あまりのことに半目になった瞬間、光もまた揺れる。そして、驚きに目を見開いたエドワードの前でぱちんと弾けるように光は消えた。弾ける際は今度こそ目を開けていられなくて閉じたら、軽い音がした。なんだろうかと腕で目を庇いながら瞼を片方だけ開けば、光は綺麗さっぱり消えていて、だがあるものを地上に残していた。
「…えっ」
落ちていたのは、人だった。
年齢はよくわからないが、男で、十代ではあるように思える。幼いような、そうでもないような。
光は消えた。光があった時に少年はいなかった。
混乱しながらも、エドワードは膝をついて少年の肩に触れた。実際の触感があったことに一瞬驚いたが、とにかく触れるのだと気づいたら肩を揺らしていた。
「おい、ちょっと、おまえ、起きろよ」
乱暴だったかもしれないが、とにかく目を開けてもらわないことには困る。生きてはいるようなので放っておいても問題はないかもしれないが、光の後に出てくるなんて異常事態には違いない。おまけに、巻き込まれていたのはエドワードとそう年のかわらなそうな少年で、日ごろ大人に囲まれているエドワードの認識からしたらそれは「子供」なのだった。そして子供を放っておくのはやはり気が咎める。
少年の肩を揺らしながら、エドワードはこの屋敷に人の気配がないことを感じていた。ちらりと一瞥すれば玄関のノブは錆付いて壊れていたし、そもそも門も、あれは開かれていたのではなく壊れていたから開かれていたのではないか、と気づく。じわじわとうるさい蝉の声を背負いながら、真夏の真昼だというのにどこか得体の知れない気持ちを味わいながら、少し焦り気味にエドワードは少年を揺り動かした。「う…」
黒いまっすぐの髪の下、瞑られていた瞼が震える。そういえば誰かに似ている、とエドワードは不意に思った。だが誰だったかはすぐに思い浮かばない。
そうしている間に、少年がぼんやりと薄目を開けた。その瞳の色は黒かった。深い、吸い込まれそうな黒だ。
その目がエドワードを捉えた瞬間、あ、と金色の瞳が見開かれる。誰に似ているかがわかったからだった。
「…誰?」