ティル・ナ・ノグ
そういえば後見人から家族の話を聞いたことがない。勿論自分も話したことはないから当然といえば当然なのだが、そういえば彼も人間である以上親があるのだろう。もしかしたら兄弟だっているかもしれない。何となく一人っ子のような気がしないこともないが…。
「ロイ、兄弟多いのか。お姉さんたくさんいるのか?」
「あ、いや、実の姉っていうんじゃない。うちの店にいる姉さんたち」
「…うちの、店?」
エドワードは眉をひそめた。店? 彼は商売人の子供なのだろうか。だがあまりそういう感じはしない。
ああ、とロイは目を瞠って、困ったように笑った。
「うちは、ええと…酒を出す店なんだ。姉さんたちはその従業員。俺はたまに店を手伝ったり姉さんたちを家まで送ったりしてる」
「…ないとくらぶ?」
覚束ない口調でエドワードがぼそりと呟いた。つまりロイの話から察するに彼の家は水商売を営んでおり、姉さんたちとはその店のホステスたちということなのだろう。
「まあ…そういうことかな。でも変な店じゃないぞ、マダムが怖いから」
「マダム」
「まあ、…母親、なのかな」
ロイは肩を竦めた。飄々とした顔をしているが、彼は恐らく、その家庭環境が原因で難癖をつけられたことがあるのだろう、どこかにこちらの出方を窺うような気配があった。ということはつまり、彼がそれなりに上流の教育環境なりなんなりにあるということだろうか。世の中自分の能力でなく血筋でしか自分を語れない輩は多く、そうした連中は自分より素性が卑しく(その考え方が既に卑しいのだが)能力が優れている人間を嫌悪する。それに当てはめて考えたらロイのようなタイプは格好の標的なのではないだろうか。会話していて思うに彼は愚かではない。どちらかといえば賢い人間だろう。
「いいじゃん、母さんいて」
「え…」
ロイは軽く目を瞠った。やはりエドワードの反応が予想外だったらしい。エドワードの読みは当たっているのかもしれない。
「それによくわかんねーけどそんな風に言うってことは結構ほんとの姉さんみたいに仲いいってことだろ?」
そうだろ、と澄ましたように言ってやれば、ロイは瞬きした後噴出した。そして、屈託のない顔を見せる。
「そういう風に言われたの、初めてだ」
「そうか? つまんねー奴ばっかなんだな」
ふうん、と気のない調子でさらりと返せば、ロイは目を細めた。その顔は嬉しそうに見えて、エドワードはほっとして、同時になぜかどきりとした。
「ありがとな」
てらいなく口にされた言葉に、エドワードは一瞬思考を停止させた。
「エドワード? エード?」
「なっ、なんだよ」
「いや、なんだよはこっちなんだけど。なんで固まってるんだ」
「いや…ちょっと驚いただけだ」
「だからなんでそんなに驚くんだよ。別に変なことは言ってないだろ」
「しょうがねえだろ、驚いたもんは驚いたんだから」
なぜか後見人に礼を言われたようで驚いたともいえず、エドワードは少々強引にごまかした。ロイは納得がいっていない様子だったが諦めたのか、それで、と話題を元に戻す。
「うちに変な客が来てて、それで姉さんたちのひとりに目をつけたらしくて。つきまとうようになって、いっぺん追っ払ったんだけど…」
「また懲りずにつきまとってきた?」
「まあ、そんなとこだな。ただ、それだけじゃなかった」
ロイは肩を竦めた。さっきもしていたが、妙に様になっているのがなんだか悔しかった。
「隙を衝いて姉さんを刺そうとしたんだ、逆上して。助けようにも俺も離れた場所にいて、…でもその時、何か、虫にしては大きい何かが飛んできてそいつにぶつかった。俺はその隙にそいつを捕まえたんだけど、正直飛んできたやつの方が気になってた」
「虫、じゃなかったんだな」
ロイは頷いた。
「多分二十センチくらいで…、人間を小さくしたみたいな。それで虫みたいな羽がついてて、…空想はあんまり好きじゃないけど、それって妖精しかないだろ、そういう生き物って」
「お、…おもちゃ、とか?」
「そんな高性能の玩具、売り出したらあっという間にトップセールスだろ。でもそんな話聞いたことない」
「まあ、そりゃそうだけど」
現実的というか即物的というかのロイの台詞に、エドワードは一応頷く。だがだからといって、じゃあ妖精だね、いたんだね、と信じられるものでもない。第一、エドワードはそんなもの未だかつて見たことがないのだ。どうにも担がれているとしか思えなかった。それでもそう判断しなかったのは、見ず知らずのエドワードを騙して得るだけの利益が彼にあるとはとても思えなかったからである。
「とりあえず変な男を憲兵に突き出して、でも俺はその時の妖精もどきが気になってた。そいつは男にぶつかった後、客の一人のとこに戻ったみたいに見えた」
「誰かの持ち物? やっぱ玩具なんじゃねえの…よく出来た。趣味で作ってる人とかで」
「だから、違うって。趣味だったとしても、そういう人間は作ったらまず人に話さないでいられないはずだ」
「おお…、なんかいやに力説するな。そうかなあ、喋らないやつもいると思うけど」
「ほんとに賢くて、ほんとにやばいことやった奴だけだろ、そういうのって。たいていの奴は喋るだろ、黙ってられなくなって」
妙に大人びた、さめた目でロイは断言した。どうやら、とエドワードは思う。どうやら自分とはまた違った意味で年齢にそぐわない少年なのではないか、と。
「で、まあとにかく。その時は結局誰のものかもわからなかったし、何の手がかりもなかったんだ。だけどさっきの家の前でまた妖精、の、ようなものを見たから、追いかけた。それで追いかけたら、」
そこでロイは困ったような、途方に暮れた顔をした。
「…唐突に目の前が光って気を失ってた。情けない」
「いやー、…まあいきなり光ったらそりゃビックリするんじゃねえの」
エドワードは想像して相槌を打った。
「だけど、あそこには錬金術師が住んでるってのは前から知ってたんだ。だからほんとはもっと準備を…」
「待った」
エドワードは聞き逃せずに手を立てた。制止されたロイは、機嫌を損ねることもなく口を開く。
「なんだ、」
「錬金術師? どこに、住んでるって…?」
エドワードは先ほどの、人が住まなくなって久しい風情だった屋敷を思い出した。ロイの口ぶりだと錬金術師は最近までその屋敷で確認されていたということになる。
「どう見ても人が住んでる風じゃなかったぜ?」
「…言われてみれば。…というか…」
ロイはそこで不意に顔を公園の中の何箇所かに向けた。そして首を捻る。それから怪訝そうな顔でエドワードが絶句してしまうような質問を口にした。
「ところで、ここ、どこだ?」
「…はい?」
「だから、あの家の近くにこんな公園なかっただろ? それに、エドワードはどこから来たんだ?」
エドワードはこの街にはたまたま立ち寄った。だからロイはてっきりこの街の子供なのだと思っていた。だがどうやら彼の表情を見ている限りややこしい事情がありそうだ。やっぱり放っとけばよかったと思っても後の祭り。弟が腰に手を当てて説教する姿が脳裏に浮かんだが、こういうのも覆水盆に返らずというのに違いない。
「ここは、確か…」