ティル・ナ・ノグ
街に入るときの表示を思い出しながらエドワードは名前を告げた。聞いていたロイの目が驚きに見開かれる。
「…ちょっと待て。セントラルじゃないのか?」
「はぁ?」
エドワードは思い切り眉をしかめた。何をとぼけたことを言っているのだろうか、この少年は。だがしかしロイはふざけているわけでも寝ぼけているわけでもないようで、はっとして慌てて立ち上がるともう一度あたりを見回した。そして公園の中央に立つ時計を睨みつけた後、おもむろに口を開く。時計には今日の日付も出ていた。
「…おい。今日は、いつだ」
「え?」
「いいから。何年の、何月何日だ」
エドワードはさらに不可解な気分になりながら答えた。
「1914年7月24日…」
ロイはこれ以上はないという位に目を見開いてエドワードを振り返った。そして、「1914年?」と震える声で繰り返し問う。それにエドワードが頷けば、彼は「そんな…」と絶句する。
「なんだよ? 何がそんなに、」
「1900年」
「は?」
堅い声が落とした年数に、エドワードはきょとんとする。
「だから、1900年!」
「なんだよ、一体…」
「俺がいたのは、1900年の7月24日のはずだ!」
「――――は…?」
今度こそエドワードも絶句した。遠くで揚羽蝶がひらひらと待っているのが見えた。夏の鮮やかで強い花の中を飛んでいる。なんていうことのない夏の情景。だけれども今ロイとエドワードの中でだけ異常事態が起こっている。
エドワードは無意識に指を持ち上げ、「…何言ってんの?」というのが精一杯だった。そして相手は、途方に暮れた子供そのものの顔で頭を振った。
「…これ、夢か?」
「殴りあうか?」
エドワードは真剣に提案したが、痛いのは好きじゃないな、とロイは疲れた声で応じた。そうして、ぐったりとベンチに座り込むと、口を押さえてぶつぶつ呟きだす。ちょっと危険な様子だったが、何かを真剣に考えていることはわかったので、エドワードは逃げはしなかった。大体、自分だって同じようなことをよくやっている自覚はある。
「…まさか、時間軸を狂わせる練成? そんな馬鹿な、しかし」
「時間の練成は不可能だろ」
思わず口を挟めば、ロイは顔を上げた。
「――そうだ。でも、こうは考えられないか。例えば離れた地点AとBがある。この間は時間にして、そうだな、二日の距離だったとしよう」
ロイは考えながら喋っているのだろう。前を見ているようで見ていない顔をしている。
「しかし、Aで対象の物質Xを分解し、Bで再構築できたら? 分解した物質Xは理解のプロセスを経ている、ゆえにBで再構築を行うことが出来る。このときAとBの間の物質的な距離は二日だが、例えば…電話だ。電話が音を再生するのにかかる時間はもっと短い。即時だろ? だからそういう理屈でもし遠隔地Bで再構築が行えるなら、そして距離は物理的なものに限らず時間的なものに置き換えて考えるこも…」
エドワードは眉間に皺を寄せて、ううん、と腕組みをした。
「それって空想科学ってやつか? ううん…個人的には面白いんだけど。でも再構築する元っていうか、何を等価にさせるんだ?」
ロイは肩を竦めてからベンチに寄りかかった。降参、というポーズだ。
「…だよな。小さな物質だって情報に書き換えたら膨大な量になる。まして人間なんて無理か」
「…人間の情報量…」
エドワードは呟いて思考を沈めた。それはつまり精神であり魂であろうか。エドワードはかつて人体練成に失敗した。しかし、アルフォンスの魂を練成することには成功した。今この少年が口にした「人間の情報を再構築する」というのは結局は人体練成になるのではないだろうか。それも、生きた人間を一度分解して再構築するという。
背筋がぞっとした。一瞬暑さも忘れて冷や汗をかく。
「…エドワード?」
はっとして隣を見れば、少年がこちらを心配そうな顔で見ていた。やはり、エドワードの知るロイ、つまりはマスタング大佐と似ていると思う。もしもこの少年が自分で言うように1900年の人間だというのなら、14を足せば今のロイになる。もしかして本人だったりして、と思ったりもするが、ロイという名前はそう珍しいものでもないだろう。それに、いくら国家錬金術師資格とかつての軍功で出世したとはいえ、元々それなりの家の生まれのような気がするから多分違うのではないかと思った。大体、目の前の少年からは軍人に進む気配のようなものが感じられない。錬金術の知識を持つあたりはロイと共通するが、それでも、目の前にいたのは当たり前に少年だった。エドワードの中には成熟した大人の男であるロイのイメージしかないから、いくら顔立ちが似ていても、他の条件が重なっていたとしてもやはりどうしても同一人物とは思えなかったというのもある。
「なんでもない。…でもさ、膨大なエネルギーが必要だとして、増幅器があったらどうなんだ?」
「増幅器…、賢者の石?」
ロイの不審げな顔に、エドワードは真面目な顔で頷く。
「馬鹿な、そんなものあるわけないだろう」
黒髪の少年は即座に否定する。だがエドワードは腕組みして真剣に告げる。
「いや。絶対なんてないだろ。伝説でも何でも、火のないところに煙は立たないんだよ」
「…そういうもんかな」
ロイは背中を伸ばして空を見上げた。そして「まいったな」と小さく呟く。
「なにが?」
「いや、試験があったんだ、明日」
エドワードは不思議な感覚でその言葉を聞いた。試験。資格試験を通って以来縁遠い単語だった。
「間に合わないとやばいのか」
「まあな…卒業と入学がかかっている」
ロイは立ち上がった。そしてエドワードを真面目な顔で見る。
「協力してくれ」
「は?」
「戻らないと。なんだかよくわからないが、俺は何かに巻き込まれたらしい」
「はあ…」
どのみち、事情聴取は終わったものの、あまり連絡の取れない場所には行かないでくれと釘を刺されている。気が進まないが大佐に連絡して足止めとかせてやろうか、と考えていたエドワードである。しかしこうなってみたら、少しくらい目の前の少年に付き合ってやるのもいいかもしれない。弟がいるエドワードとしては、なんだかこの少年を放っておけなくなっていた。
「いいぜ。どうせこっちも今日明日は動けなさそうだったんだ」
「動けない? なんで」
「まあ、色々あんだって。で? また戻るか?」
ああ、とロイは少し考えて、それから難しい顔をした。
「それなんだが…実はその前に重要な問題があるんだ」
「重要な問題? なんだよ、それ」
ロイは意を決した顔で口を開いた。一体何事かとエドワードも釣られて息を呑む。そして、何を言われたかといえば。
「腹が減った」
「…はぁ?」
答えは予想外の方向からやってきた。エドワードは思わず間抜けな顔をしてしまう。
「もしここが1914年だとして…、まいったな、通貨はセンズのままか?」
「ああ、センズだけど」
ロイはポケットに手を突っ込み、落胆の表情を見せた。
「相場は変わってないのか…どうなんだろうな。これでどれだけ食べられるんだかわからない」
「まあ、足りなかったら奢ってやるって」