tricolore-1 (side日野)
火原はよく昼休みに普通科の生徒たちと一緒にバスケをすることがあるそうで、夢中になるあまり、時間のことや移動教室のことがすっぽりと頭から抜けてしまうこともしばしばらしい。
大袈裟に感謝する火原に、柚木は仕方がないな、とでも言うように肩を竦めて、くすりと微笑んだ。そして、傍らで口を挟むタイミングを失っていた香穂子の方を振り返ると、柚木はいつものように穏やかな笑み浮かべた。
「やぁ、日野さん。こんにちは」
その瞬間、香穂子は何か小さな引っかかりのようなもの覚えた。だが、目の前にあるのは本当にいつもと変わらぬ、一分の隙もなく優雅な微笑で、何ひとつ、不自然なところなど見当たらない。思い過ごしだろうか、と内心で首を傾げていたため、挨拶を返すのが数秒遅れた。
「日野さん?」
「あ……、こんにちは!」
「話の途中で邪魔をしてしまってごめんね」
「いえ、全然お構いなく! 私の方こそ、引きとめちゃったみたいで……」
「そんなことないって、日野ちゃん。あっ、そうだ。今、ちょうど柚木の話をしていたとこなんだよ」
「僕の?」
不思議そうに首を傾げた柚木に、火原は元気よく「うん!」と頷き返した。
「今度の日曜に、日野ちゃんと一緒に公園で練習をしようかって話をしててさ。それで、前に柚木と話したこと思い出して」
「ああ………。もしかして、今度一緒に合奏をしないかっていう話のこと?」
「そうそう、それ! なぁ、今度の日曜、予定空いてない?」
拒む理由がなかったのだから仕方ないと思いつつも、まるで自分のひらめきの素晴らしさを疑っていない火原の無邪気さに、香穂子はこっそりとため息を吐いた。だがすぐに、これではダメだ、と重くなった気持ちを切り替えるべく、心の中で自分に言い聞かせた。
――――いや、でもさ、よく考えればいい機会じゃない。二人の生演奏を間近で聴けるわけだし、ついでに私の演奏も聴いてもらえるわけだし……。
楽器は違うけれど、この二人からなら、色々と有益な助言がもらえるかもしれない。普段はファータたちとの練習が主で、あまり他人に聴いてもらったり、感想やアドバイスをもらったりする機会がない。頼みの綱であるはずの金澤は、専門外だからと言って演奏に関するコメントはしたがらないのだ。もっとも、その代わりのように、三回に一回くらいの割合で、楽曲や作曲家の四方山話を聞かせてくれるので、最近はそれ目当てで、見かけるたびに声をかけて無理を言うようにしている。
――――今度こそ、ちゃんと自分のヴァイオリンの音を聴けるような余裕を持って演奏するためには、ここはやっぱり、少しでも場数を踏んで慣れることしかないんだよね。
第一セレクションは、香穂子にとって、正真正銘生まれて初めて立った舞台だ。火原との合奏のおかげで、他人がいる前でヴァイオリンを弾くことに、ようやく少しずつ慣れ始めたところではあったが、あんな大勢の目の前に立って演奏することなど自分にできるのだろうか、と本当はずっと半信半疑だった。
舞台の上で演奏していた間の記憶は、実際のところ、ほとんどない。
どこをどう弾いたのか、自分ではさっぱり思い出せなかったけれど、伴奏者の森や他の参加者たちは、いい演奏だった、と声を掛けてくれた。けれど褒めてもらえてもその事実が自分の記憶に残っていないせいか、それが自分の演奏に対する評価なのだという実感がいまいちわかず、ひどく損をしたような気持ちになった。
今度こそ、と思うのであれば、できる限りのことはしなければならない。苦手意識のある先輩だろうとなんだろうと、利用させてもらえるならとことん利用させてもらうというくらいの強気がなくてどうするのだ。
「でも……、僕が行ったらお邪魔にならないかな?」
沈黙したままの香穂子をちらりと横目で見つつ、さりげなく空気を呼んだ柚木の発言だったのだが、香穂子は火原が口を開くよりも早く、がしりと柚木の腕を掴んで、こう言った。
「いいえ、柚木先輩! ぜひご一緒しましょう!!」
びっくりして目を丸くする柚木というものを、香穂子はこのとき初めて見たのだった。
待ち合わせの場所は、公園の入り口近くにあるベンチだった。
きちんと余裕を見て、約束の五分前には着くように出たのだが、先輩二人が並んで立っている姿を見つけ、香穂子は慌てて荷物を背負い直し、駆け出した。
「お待たせしてすみません……っ!」
香穂子の声に、二人は話を止めてパッと振り返った。
「日野ちゃん、おはよう!」
「おはよう、日野さん」
重なり合った二人からの挨拶に、少し弾んだ息の下で香穂子もホッとして口許を緩めた。
「おはようございます、先輩……。お二人とも早かったんですね。私ももっと早く出てくればよかった」
「遅刻したわけじゃないんだから、気にすることないよ。おれ、普段はもっと時間ギリギリだもん。今日はたまたま、母さんが仕事行く車に便乗させてもらったから早く着いちゃっただけで」
聞けば火原の母親は編集の仕事をしているのだそうで、今日のように土日でも仕事で出かけることが多いらしい。
「おれと違って、柚木はその辺しっかりしてるよなー。いつも約束の時間より絶対早く着いてるし。遅刻するのなんか、見たことないもん」
火原が改めて感心したように言うと、柚木はくすりと笑った。
「時間より早く出てしまうのは癖のようなものなんだ。待っている時間を使って本を読んだり考えごとをしたりするのも好きだから、苦にならないし」
「でも、そうやってちょっとずつでも時間を積み重ねたら、結構大きいですよね。うーん、見習いたいです……」
思わず我が身を振り返って真剣な顔で呟いた香穂子を見て、柚木は小さく声を立てて笑った。
「そんな大層なことを考えてやっているわけではないけれどね。……ああ、そう言っている間に、ちょうど時間にもなったようだし、移動しようか。あまり人通りの多いところでは邪魔になるし、あっちの方が広くていいんじゃないかな」
柚木の提案に、火原と香穂子も頷いて、公園の中を歩き始めた。
桜の季節はもう終わってしまったが、花壇に咲く花はまだまだ盛りの色鮮やかさだ。その中には若葉が初々しい色をのぞかせており、華やかな春の彩に爽やかさを添えている。
適当に場所を決めてそれぞれ楽器の準備を終えると、さてまずは何からやろうか、という話になった。
「音出しも兼ねて、まず三人で何か合わせてみようよ」
最初にそう提案したのは火原だった。柚木もそれに頷きながら、香穂子の方へ視線を向けた。
「どう、日野さん? 何か合わせてみたい曲はある?」
「え……っ、と、私は、まだ弾ける曲が本当に少なくって」
香穂子が初見で弾ける曲となると、かなり初歩的な曲ばかりになってしまう。それ以外でということになると、ひと通り練習したことのある曲になるのだが、それもまだ数えるほどしかない。
口籠ってしまった香穂子を見て、柚木は何かを思案するように、形のよい顎に指を添えた。
「そう……。それなら、あの曲はどうかな。日野さんがこの前のセレクションで弾いた曲」
香穂子がハッとして顔を上げたのと、火原が賛成の声を上げたのはほぼ同時だった。
作品名:tricolore-1 (side日野) 作家名:あらた