tricolore-2 (side柚木)
だが、その翌日、香穂子のヴァイオリンに関する噂を耳にした柚木は、昨日の火原が言わんとしていたことは、決して思い込みや誇張ではなかったのだと理解した。
――――突如素人並みになってしまったヴァイオリン……、ね。
周囲の反応は様々だったが、香穂子に対する同情的な意見は、決して多くはなかった。そのほとんどは、願っても参加の叶わなかった音楽科の生徒たちの声だった。自分たちを差し置いて学内コンクールに参加しておきながら、突然あんな演奏をされたのでは、ふざけているのかと文句を言いたくもなるのだろう。
――――馬鹿だな。そんなことをして、あいつに何の得がある。
柚木にすれば、どれもくだらない意見ばかりだった。あれこれと理由を推測する者もいたが、それもすべて無意味だ、と思った。
なぜなら、どんな推理をしようと、辿り着く結論はひとつなのだ。あれが香穂子の実力のすべてだ。それ以上でも、以下でもない。それより他に、導き出される答えなど、あるはずがなかった。
香穂子はどんな非難にも反論せず甘んじて受けているのだと聞いた。但しそこには、弁解も謝罪もない。彼女は語るよりも、ヴァイオリンの練習に没頭することを選んだようだった。
どういう理屈があるのかはわからない。だが柚木には、いつかこんな日が訪れるのではないかという漠然とした予感が、以前から胸の内にあった。このまま続いていくという想像をするには、彼女のヴァイオリンは、どこか薄氷を踏みながら進むような危うさがあった。
それはほんの、かすかな予感でしかなかった。しかし、いざ現実となると、やはりこうなることが必然だったのではないか、と柚木には思われた。
だからこの話を聞いたときもさほど驚きはなく、むしろ、やはりそうか、と納得する気持ちさえあった。だが、火原の方はそう簡単に切り替えができなかったらしく、それから数日の彼は、柄にもなく鬱々としていた。
しかし、そんな火原の様子が、ある日を境に変わった。
どこか空元気で精彩を欠いていた表情に、これまでの底抜けの陽気さとは違い、何かを心に決めたような、強い意志が宿ったのを感じた。それとなく何があったのかを訊ねてみると、火原は少し考え込むように首を捻りながら、小さな笑みを浮かべた。
「うーん……。香穂ちゃんが頑張ってる、って話を聞いたからかな」
またその名前か、と思ったが、口には出さなかった。結局のところ、落ち込むのも浮上するのも、元をたどれば同じ人物に行きつく。その意味するところに、おそらく火原も薄々気づいてはいるのだろう。
「土浦が教えてくれたんだけどさ。今、香穂ちゃん、王崎先輩に練習を見てもらってるんだって」
「王崎先輩? ……ああ、オケ部のOBで、ヴァイオリン専攻の?」
柚木たちとは入れ違いで卒業しており、専攻も違うので直接の接点はないが、幾つかのコンクールで優秀な成績をおさめていることは知っている。また、卒業後も頻繁にオケ部に顔を出しているため、火原の話にも度々名前があがる人物だった。
「土浦は、香穂ちゃんなら大丈夫だから心配してないって言ってた。それを聞いて、逆におれは、何でこんなに不安になっていたんだろう、って考えた。それでようやく、香穂ちゃんがこのまま音楽をやめてしまったらどうしようか……、って。それがずっと、怖かったんだ、ってことに気がついたんだ」
火原はゆっくりと瞬きをし、言葉を継いだ。
「………でも、香穂ちゃんは何も諦めてない。必ずまた、学内コンクールの舞台でヴァイオリンを弾くよ。おれには、頑張ってるあの子のためにしてあげられることはないけど、今、やらなきゃいけないことはある。あの舞台のうえで、ちゃんと胸を張って会えるように、おれは、おれにできることを、全部やらなきゃいけないんだな、って」
半ば自分に言い聞かせるように、火原が手探りで言葉を探しているのがわかった。今、自分の目の前で火原の中で何かが変わろうとしているのを、柚木は肌で感じていた。その変化が火原にもたらすものは何なのか、それが自分と火原の間にどのような影響を与えるものなのか、何一つとして確かなものはない。しかし、その火原の変化こそが、自分たちがいつまでもこの場所にいることはできないのだという、終わりの始まりであるように、柚木には思われた。
思い返せばこの春から今まで、三年目の付き合いにして初めて知る火原の表情がいくつもあることに、改めて気づく。そのきっかけとなったのが一人の少女の存在であることを、柚木は知っている。彼女の存在をきっかけに、火原はこの学内コンクールを通して、本当の意味で音楽と向き合うための、最初の扉を開こうとしている。
――――何だろうな、この気持ちは………。
火原だけではない。変化は、他のメンバーにも少しずつ違う形で起きている。その中で、自分だけが取り残されていくような疎外感に、柚木は思わず苦笑を浮かべた。
自分には、開くどころか、触れることさえできない扉だ。決して、願ってはならないものだ。
――――願えば、苦しいだけだ。
だから、せめて。この限られた時間の中でだけ夢を見ていたいのだと望むくらいのことは、罪ではないだろう。夢はやがて醒め、モラトリアムも終わりを告げる。
――――もう少しゆっくりでもいいじゃないか……、なんて思うのは、俺の我儘だな。
今はまだ、火原とは、肩を並べて同じ場所を歩いていたい。
自分にしてはひどく素直で真摯なその願いに、柚木は声を立てずに小さく笑った。
第三セレクションの結果は、前評判を大きく覆す内容となった。
これまで場内の人気をそこそこ集めながらも、なかなか成績を残せずにいた火原がいきなり優勝をさらい、次いで同じ三年生である柚木が二位入賞を飾ったことで、前回の二年生による入賞独占に対する上級生の反撃か、というような煽り文句が、翌日の号外に踊っていた。
火原の演奏の何が他より優っていたのかは、うまく言葉で説明することができない。今回のセレクションのテーマが火原の音楽によく合っていたことや、選んだ曲が火原にとって気持ちを乗せやすい曲であったのも事実だろう。だが、そのどれも、決定的な理由と呼ぶには何かが足りない。
そもそも、これまで火原の成績がいまいち振るわなかったのは、一つに曲の完成度がやや低かった点があげられるだろう。彼のムラのある性格は、以前から色々な場所で指摘されていたことだが、それは演奏の中にも如実に表れており、勢いがあって華やかな反面、その勢いでおして誤魔化そうとしてしまう部分があるのは否めなかった。
才能も、技術もある。天性の勘の良さや、華もある。だが、それらを十分に活かすための土台となるものが足りない。柚木は火原のことを、ずっとそんな風に思っていた。
柚木はこれまで、火原のように素直にまっすぐ音楽を楽しむ人間を見たことがなかった。音楽に対する葛藤や屈折がない。怖れも、ためらいもない。その陰りのなさが、彼の音楽の大きな魅力のひとつだった。
――――そんな君が、ずっと眩しくて、憎らしかった。
遠ざけたいと思ったことがなかったわけではない。だが、それでも側にいることを選んだのは、他ならぬ柚木自身だった。
作品名:tricolore-2 (side柚木) 作家名:あらた