MY SWEET HOME
静かに告げられた刹那の言葉は、真実以外のものを表してはいなかった。グラハムはそう思った自分の直感を信じて、握られたままの手を離すよう、刹那の腕を叩いて合図した。合図の意味を悟った手がゆっくりと離れていく。やや強い力であったためか、グラハムの白い腕にはうっすらと赤い痕が残されている。刹那はそれに気づいて軽く眉を顰めた。
「すまない」
「……ん? ああ、これか。痛みなどないから、気にする必要はないよ」
自分の赤くなった腕をさすりながら、グラハムは言った。
先ほどまで張り巡らされていた緊張感は、それらのやり取りでいい感じに薄まっている。フッと和んだ空気に、刹那は肩の力を抜いた。
「君の家にいても、私が変われるとは思えないが」
「それは、やってみないことには分からない」
あくまでも己の意志を貫き通そうとする刹那に、グラハムは苦笑し、同時に肩も竦めてみせた。
「私の生き方にまで、君が責任を感じる必要はないんだぞ? 私はただガンダムを倒したかっただけ、なのだから」
むしろ彼は、グラハムの我侭に、よく応えてくれたと言うべきだろう。ガンダムを人質にとってまで勝負を持ちかけたのだから、卑怯者と罵られても文句は言えない立場だった。
戦う手段の一つとして利用した手でしかないのだ。
それゆえに刹那が感じる責任とやらに、グラハムは申し訳なさを覚えていた。
「それを終わらせたのは俺だ。アンタに未来を渡してこそ、俺の変革は成し遂げられる」
どうあってもその結論を変える気はないらしい刹那に、グラハムは困ったように笑った。自分も相当な頑固者だけど、彼もそれに匹敵するくらい頑ななようだ。けれど、グラハムは世話になるつもりなんて、これっぽっちもないのだ。
「君の意志を挫くのは申し訳ないんだが……」
本当に、ここにいなければならない理由がなかった。どうせ嫌われているだろうし、責任感で一緒にいられるのも苦痛だ。こんな関係で同居が上手くいくはずもないと、出て行く旨を述べようとしたら。
「アンタはやっぱり分からず屋だな」
眉間に皺を寄せて不機嫌そうな刹那の台詞に、行動を遮られてしまった。
「なんで君にそんなことを──」
お互い様じゃないかと、グラハムは続きを言おうとして、それが叶わなかった。
何か、暖かいものが唇を塞いでいる。目の前を黒く艶めく糸のような髪の毛が覆い、その向こうには同じ色の睫毛が、少しだけ浅黒く日焼けした皮膚の上に揺れている。
閉じられていた瞳が、鋭さを伴って開かれた。琥珀の双眸に射抜かれ、グラハムは抵抗もできずに、刹那の強引なキスを受け止めるほかなかった。
「な、なな、なっ……」
唇が離れた後、グラハムは壊れたモビルスーツのような、ぎこちない動きを見せていた。違うのは体温があって、血液が身体中を流れていて、感情というものが存在することだろうか。
「……な、なにを……、君はいったい……」
顔を真っ赤にして声も震わせている様は、怒りというよりも戸惑いのほうが色濃く出ている。けれど、それは刹那も同じだった。
自分は今、何をしたのだ?
呆然としながらも、まだ暖かさの残る唇に指で触れてみた。途端に蘇る記憶。柔らかい感触と、金色の髪の毛と、オリーブグリーンの瞳。あれは夢ではないのだ。
グラハムに、キスをした。
それを認識した瞬間から、刹那の頭の中は急速にクリアになっていく。ときに行動は、理論や理屈を越えて現れる。考えるより先に手が出るのと同じだ。
ソレスタルビーイングの責任なんてただの建前。刹那は個人的に、この男が気になっていただけなのだ。なんだ、そういうことかと分かってしまえば、刹那の行動はより確固たるものとなり、腹も据わる。
「そういうことだ」
未だ混乱から抜けきらないでいる男に向けて、刹那は堂々と恥らうことなく言った。
「そ、そういうって──」
「ピピピッ」
相変わらず言葉足らずな刹那から、電子音が響いた。グラハムは言いかけた台詞を飲み込んで、通信機を取り出している刹那の行動を見守る。それは軍人としての習慣とも言えた。
表示されたメッセージを読んだ刹那は、すぐに通信機をしまい、グラハムに視線を合わせる。
「召集がかかった。少し外す。俺が戻るまで、必ずここにいろ、いいな」
「──召集……」
それがソレスタルビーイングのものなのは、間違いないだろう。グラハムは後の台詞よりも、そちらのほうが気になった。
「任務じゃない。ブリーフィングだ。何もしない」
刹那は彼の心の中を正確に読み取って、安心させるように言い聞かせた。ガンダムは動かさない。武力介入も行わない。誰も死ぬことはない、という意味を込めた言葉にグラハムは瞠目し、その後で視線を逸らした。心の中を見透かされたような思いが、グラハムから素直さを奪っている。
「行ってくる」
拗ねた子供のように下を向いていると、刹那はそれだけ言って、部屋を出て行ってしまった。
「あ……」
バタンと音がして、扉が閉められる。「行ってくる」という彼の言葉に、何も返してやれなかった。別に同居を承諾したわけではないが、声をかけてあげられなかったことが、グラハムの中にしこりとして残った。
刹那がいなくなり、さらにガランとした室内で、グラハムは同じ場所にぼんやりと佇んでいた。出て行きたい気持ちが八割ほどを占めているのに、何故だかそれを躊躇ってしまうのだ。
一つは先ほど声をかけられなかったからで、もう一つは刹那が行ったアレのせいである。
気のせいでも間違いでもなければ、アレはキスで、グラハムは感触を思い出して、反射的に頬を朱色に染めた。
「そういうことって……」
捻くれずに意味をそのまま取れば、彼は自分に好意を持ってくれている、ということになるのだろうか。考えただけで、さらに顔が赤くなり体温が上昇する。
刹那がそう思ってくれた理由が、まるで分からない。
前述したとおり、グラハムは刹那を追い掛け回したし、彼の邪魔ばかりしたし、嫌がられる理由なら幾つでもあげられるのだ。まかり間違っても、好かれることだけはないだろうと思っていただけに、今のこの状態をどうしたらいいのか、戸惑うばかりだった。
グラハムは時計に目をやる。刹那はいつ戻るのだろうか。すぐに戻ってほしいような、ほしくないような、複雑な心境が渦巻いている。
何もない室内に佇み、「ふぅ」と、やるせない感じの大きな溜息を一つこぼした。
作品名:MY SWEET HOME 作家名:ハルコ