MY SWEET HOME
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「君は、私を飢え死にさせることが、目的なのか?」
「……そんなつもりはない。悪かった」
思いのほかブリーフィングが長引いてしまったのは、ヴェーダがある地方での「民族紛争の起こる可能性」を、示唆したからだった。
戦争根絶と、武力介入を掲げるソレスタルビーイングが、また動き出さなければならなくなるかもしれない。その情報に、トレミークルーの誰の上にも、緊張が走った。
アロウズという大きな組織が滅んだばかりであるが、民族紛争はそういった世界の流れとは無関係なところで起きるものである。
対立する者同士の武力行使が開始された際の、こちらの対応などを話し合っているうちに、時間はどんどん過ぎていったのだ。
グラハムのことを思い出したのは、話し合いがひと段落ついてからで、刹那は「しまった」と、思うと同時にトレミーを飛び出していた。
ひょっとしたら、彼はもういないかもしれない。それでも刹那は「いる」方向に賭けたかった。衝動的にキスをしたくらい、気になる相手なのだ。あんな行動に出たのは本当に初めてだった。刹那の思いを少しでも感じてくれているのなら、彼はきっと、あの部屋で待ってくれているはずだ。
玄関の鍵を開けるのももどかしく、刹那はやや慌てたように扉を開けて中へと駆け込んだ。
「グラハム・エーカー!」
暗い室内の、唯一明るい場所である窓ガラスに寄りかかって、グラハムは飛び込んできた刹那にゆっくりと視線を向けてきた。
そして、先ほどのやり取りに繋がる。
出て行かなかったグラハムにホッとする反面、何も真っ暗な中で待っていなくても、と思う。
「遅くなったのは悪かったが、食事はデリバリーでも頼めばよかったのに」
刹那はピザの注文を取り終えた後で、グラハムに言った。真っ暗だった部屋の明かりもつけて、ようやくここに、人が住んでいる様相を映し出すようにもなった。
「他人の家で勝手をすることに、慣れていないのだよ」
グラハムは肩を竦めながら言う。その表情はいくらか寂しげに見えた。
「ここにいろ、とは言ったが、何もするな、とは言ってないだろう」
「だがなぁ、少年。君の家は何もなさすぎるぞ?」
果たしてこれを「家」と呼んでいいものかどうか。家をよく知らないグラハムが、疑問に思うくらい殺風景である。
「……そうだな。そこは善処する」
もともとこの場所は、単なる待機場所でしかなかった。ミッションが開始されれば、刹那はガンダムに乗って戦場へと旅立っていく。刹那にとっては、そここそが居場所であり、存在意義でもあった。だから家だという意識は、ほとんどなかったのだ。
「料理をするにも器具がないし、盛り付ける皿もない。冷蔵庫があることだけが唯一の救いかな?」
「……」
そんなことを口にするグラハムに、刹那はあることを問いかけようとしてやめた。ここにいてくれるのか、と思わず尋ねそうになったのだ。けれど、それを聞いて断られたら引き止めることができなくなる。刹那はそのリスクを、まだ冒したくなかった。
「明日、そういったものを買いに行く」
とりあえず今日はもう夜も遅く、店も閉まっている。食器のいらないピザと一緒にドリンクも頼んでおいたから、グラハムの空腹はなんとか治まってくれるだろう。明日の朝食は外で食べればいいし、そのまま買い物へ出れば、時間を無駄にすることなく過ごせる。民族紛争が起こらず、刹那に任務の命令が下らなければ、という条件がつくけれど。
本当に何事も起こらないことを切に願う。今日だって長い時間を放っておいたのだ。責任を取るとまで言っておいて放置では、説得力がまるでない。
「アンタも一緒に来てくれ」
その分を取り戻すためではないが、刹那はグラハムにも声をかけておいた。
「……別に構わんが。ところで少年」
「刹那だ。俺の名前は、刹那・F・セイエイだ」
「そう、その名前を聞きたかったのだよ。──せつな、か。どういう字を当てるのか、教えてもらってもいいかな?」
構わないと言おうとして、ここには紙とペンすらないことに気づいた。仕方がないので、パーソナルデータを引っ張り出してグラハムに見せようとしたら、その彼のほうから紙とペンを差し出された。
それはずいぶんと年季が入っていそうな、革張りの表紙がついた手帳だった。恐らく個人の持ち物なのだろう。刹那は開かれたページとペンを取って、そこに自分のコードネームを記していく。
「手帳なんて持っているのか?」
連邦に所属する文明圏では、ほぼすべての媒体がデジタル化されているので、こういったアナログなものを持ち歩く者は「変わり者」と呼ばれている。グラハムらしいと言えばそうなのかもしれない。
「自分のプライベートに関することは、ずっとこれに記してきたのだよ。……ここ数年は、まったく使わなかったけどね」
刹那は手帳とペンを返しながら、思わずといった具合に、グラハムの顔を見つめてしまった。自分の過去が思い出される。刹那の帰りを待つ者など、誰ひとりとしていなくなった故郷のことを。
「刹那・F・セイエイか。三種類の文字を使うなんて面白い名前だな」
「……名づけた奴に文句を言ってくれ」
もっともその人物は、刹那が元の居場所へと帰してしまったけれど。
「気に入っていないのか?」
「そんなことはない」
ガンダムマイスターとして生きる刹那の、象徴とも言えるものだ。もし、心が折れそうになることがあったとしても、この名前がきっと刹那を支えてくれるだろう。
そのとき、ピンポン、と来客を告げるベルが鳴った。
「ピザが来たみたいだな」
「意外と速かったなぁ」
手帳を畳んで、尻ポケットにしまい込みながら、グラハムは腕時計に視線をやった。刹那が注文をしてから二十分ほどでの到着である。もうすぐ日付が変わるという時間帯に、グラハムはやっとのことで、昼食と夕食の二つにありつけることができた。
奇妙なことになった、と思う。
グラハムは硬いベッドの上に横たわりながら、今後どうしたらいいのかを、あれこれ考えていた。このままズルズルと同居生活に甘んじてしまうのは上手くない。刹那の気持ちに対して、自分が応えた形になるからだ。
そんな気はない──少なくとも今は──のだし、出て行くのが一番いいと分かっているはずなのに「そういうことだ」と、言った刹那の顔を思い出すたび、グラハムは扉を開けることを躊躇するのだ。
ベッドには布団すらないので、硬い寝台の上に二人、背を向けあう格好で眠っている。隣の刹那はとても静かだ。熟睡しているのか、それとも眠る振りをしているだけなのか。背中を向けているグラハムには確認することができなかった。
作品名:MY SWEET HOME 作家名:ハルコ