01/Tio estas farebla.
さほど長いわけでもない階段を降り、人の気配の濃いそこへと、立ち戻る。
先と変わりなく羽織った鳶色の外套、けれど先とは違って、その手に携えた漆黒の棍。
最後の段に足をかけながら、その漆黒の髪を覆うようにゆるりとバンダナを結び直し、表情を改める。
にこりと、口唇に刻まれた優しげな笑みと、琥珀の瞳を輝かせる強気の色。
今の「自分」に、相応しいように。
何食わぬ顔で番台の前に立てば、目を丸くした女将が慌てて目を左右に走らせ、潜めた声で、忠言を寄越した。
「ちょっと、坊ちゃん……! 何考えてるんだいっ!?」
湛えた笑みは崩さないまま、ちらと酒場に視線を投げ、ルイシャンはまるで世間話のように、言葉を紡ぐ。
「それなんだけど、マリー。グレミオたちを、頼むよ。悪いとは思うけど」
「何だって?」
「ちょっと、騒ぎになるかもしれないけど、一応迷惑はかけないつもりだから……知らない振りをしていてくれると、助かる」
「あ、ちょっと……!」
常、身に着けたバンダナをふわりとなびかせ、手に馴染んだ漆黒の棍を手に、止めとばかりに、身を覆う鳶色の外套を、脱ぎ捨てる。
沈んだその色を肩に引っ掛けた、痩身に纏うのは、鮮やかな赤の胴衣。
堂々とその姿を晒し、ルイシャン・マクドールは、まるで立場を忘れたように、晴れやかに笑って見せた。
Kion vi deziras? / 03
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そのとき、ビクトールは心底困り果てていた。
野暮用のついでに帝都の様子をうかがいに足を伸ばしてみれば、唐突に兵が街中に溢れ、騒がせて。
面白いとばかりに滞在を決め込んだはいいものの、懐がすっかり心もとなくなっていたのに気づいたときには、後の祭り。
すでに帝都の出入り口は塞がれ、元の場所に帰ることもかなわず、おまけに宿代はとっくに足が出ている。
ここまできたらもうどうとでもなれとヤケ食いに走ってはみたものの……頭が冷えてみれば、それは自分の首を絞める行為に他ならなく。
どうしたものかと、真剣に頭を悩ませては、いたのだ。
彼の滞在先である宿やそこに併設された酒場は、グレッグミンスターでも有数のものらしく、昨夜から街中で何者かを探しているらしい兵たちが、入れ替わり休息にやって来る。
そんな中でまさか、無銭飲食など出来るはずもなく、しかも彼は、所謂ところの「脛に傷持つ身」というか……今は、帝国にだけはどうあっても捕まるわけにはいかない事情を持っていて。
困り果てていた彼が、その少年に目を止めたのは、ちょうど彼が、宿の女将にと視線をくれたときだった。
恰幅のよい女将の前にいる、小柄な子ども。
鳶色の外套に身を包んだ姿は別段特徴もない、ごく普通の少年のようで、先ほどから酒場の中をうろついていることに、気づいてはいた。
今、その子どもは何やら女将にグラスを渡されていて、彼女の、まるで親戚か近所の子どもにでも向けるような心配そうな顔から、知り合いだろうか、とふと考える。
それにしては、旅人が着るような外套が、やや不自然ではあったのだが。
やがて、空になったグラスを返した少年が、外套を翻して、女将に背を向ける。
酒場から出て行く少年が傍らを通ったときに、ふとその横顔に目を留め、ビクトールはその端整な顔立ちに驚いた。
この戦の絶えない時代、独りで旅をする子どもがいないわけではないが、その少年の姿は、そのような子どもとは、はっきり一線を画しているように見えた。
そろそろ少年期を脱し、青年への過渡期に入ろうとするだろう年頃に相応しい、柔らかさを残しながらも、硬くなり始めた顔の線、どう見ても労働階級ではない白さを止めた頬を縁取る、艶のある漆黒の髪。
一体どういう身の上の子どもかと、しばし考えさせられた。
そんなビクトールの視線も知らずに、少年は宿の奥へと姿を消し、彼はまた、寂しすぎる懐と、宿代及び食事代に頭を悩ませることになったのだが……
それから、すぐに。
ふと、何かを感じて、ビクトールは酒場を見回した。
変わらぬ喧騒と、雑多な人の溢れる、薄暗い店内。
真昼間から管を巻く男たちや、その対応に追われる女たちの姿も、先と変わるものはなかったが、何か―――何か。
自分に、「違う」と思わせたものが、あるはずで。
廻らせた視線に、鮮やかな色彩が引っかかる。
若草の緑と、勿忘草の、二藍。
その持ち主は、宿の女将と話をしている、小柄な……子ども?
つい先ほど見たばかりの鳶色の外套に、見覚えのないバンダナを締め、漆黒の棍をごく自然に携えたそれは、かの少年か。
「あ、ちょっと……!」
焦ったような女将の声を背に、振り返った少年が、ばさりと脱ぎ落とした鳶色の外套。
その下に現れた鮮やかな赤に、目を奪われた。
つられるように辿った視線の先、その顔立ちは、わずか前に見たものと寸分違わぬはずなのに、感じる、強烈な違和感。
やさしげ、とすら見える形に綻んだ口唇とは裏腹に、誰にも無視は出来ないほどの輝きを映した琥珀の瞳に、魅入らずにはいられない。
そこに居るのは、すでにして、あの、不可思議ではあってもごく普通とも言える子どもではなく、丸きり別個の存在、としか思えなかった。
とん、と手にした棍で軽く床を突いた少年は、何かを探すように酒場を視線でひと撫でし、残念そうに息をついて、身を返す。
宿の出入り口へと向かうその動きに、視界の端、何故か顔色を変えた宿の女将が、目についた。
扉にかけられる指に、知らず、立ち上がってそれを目で追う、自身が、少年に、何を感じたのかを吟味する間もなく。
少年が力を入れるまでもなく開いた扉から、半瞬を置いて、騒がしい気配、そしてほぼ同時に、不愉快そうな怒声が、酒場の中へと入り込んだ。
作品名:01/Tio estas farebla. 作家名:物体もじ。