Happy Life
第5章 心の中の嵐
その日から、ハリーは家に帰ることが苦痛で仕方なった。
「残業だ」「資料整理だ」と理由をつけては、彼はいつも長時間オフィスに入り浸った。
とめどなくハリーは ドラコに話しかけている。
日々の出来事、下らない冗談など。
ドラコは律儀にハリーの前に座ったりしているが、不機嫌そのものだ。
ことある事に(お前は家へ帰れ)と命令した。
することがあるだろ?
食事はどうするんだ?
ちゃんとベッドで寝ないと疲れが取れないぞ。
そんなことは分りきっていたが、ハリーは自分でもどうしようもなかった。
ドラコの傍にいたかったのだ。
片時でも離れると、 ドラコのことを思って頭がいっぱいになる。
冷静になれと、自分の中の声が聞こえる。
相手は機械だ。
お前のことを思っているようで、何も思ってなんかいやしないんだ。
ただのプログラミングの一部じゃないか。
とうとうある日 、睡眠不足のせいか、少しほほがこけた彼を見てドラコは
(君は家に帰らなきゃならない)と重々しく言った。
(本当に体を壊してしまうぞ)
心配げに薄灰色の瞳が近づいてくる。
画面に ドラコの顔が大きくなる。
切れ長の大きな瞳は、近くで見ると青く見えた。
銀色に近い髪はドラコの動きに添ってふわりとゆれる。
そのなだらかなほほを触ってみたかった。
きれいな首筋、唇からこぼれる整った白い歯。
その感触や手触りが、よみがえってくるようだ。
彼は好んで、ハッカのキャンデーを食べていた。
だからふいにキスをすると、その鼻に抜けるような香りが唇から伝わってきた。
その香りを確かめたくて、何度も何度も彼にキスを繰り返した。
きつい瞳がこのときは閉じられて、僕のキスを素直に受ける。
力を抜き僕に安心したように、体を預けていた。
そんな彼を抱きしめるとき、なぜか自分はいつも泣きたくなった。
「幸せ」というものがあるなら、今この自分の手の中にあると思った。
たまらず、ハリーは顔を歪めた。
涙が出て、止まらなかったからだ。
自分は気が狂ったのかもしれない。
ありもしないことを考えてしまう。
彼は機械じゃないか……
こんな思い出なんかあるはずないじゃないか!
僕はいつも一人で生きてきたはずだ。
寂しい自分がかわいそうに、とうとうこんな機械相手に夢をみるなんて。
なんてバカなんだろう……
ポタポタと滴が、ひざの上で握られたこぶしの上に落ちてくる。
自分がみじめで情けなかった。
形もなにもない、ただの機械のことが好きだなんて……
(……ハリー……)
画面の中で、彼が名前をやさしく呼んだ。
その声の柔らかさに、ハリーは顔を上げた。
画面の中の彼は困った顔をしている。
(もう泣くな、ハリー。君の泣いている姿を見るのは、とても辛い)
長いまつげを揺らして、彼の瞳が瞬いた。
(………僕はここへ来るべきではなかった。ここにいることで逆に、君を困らせてしまったみたいだな)
ドラコは画面の中で肩を落とした。
(君は僕に出会う前は、この世界で、とても幸せに暮らしていたのに、すまない)
彼は頭を下げた。
(僕はもう二度と君の前に現れない。―――消えることにする)
その言葉を聞いた途端、ハリーは声にならない悲鳴を上げた。
ハリーは画面に近づいた。
必死で中の彼にすがる動作をする。
(たのむ、行かないでくれ!ドラコ!!なんでもするから行くな!ちゃんと仕事をするから!君が言うことは絶対に守る。家にも帰る!わがままは絶対に言わないから。だっ、……だから、僕を一人にしないでくれ!お願いだ!!)
まるで自分が5歳の子供になったようだ。
涙をとめどなく流し、地団駄をふみ、泣きじゃくっている。
他人からどう見られようが、知ったことではない。
恥も外聞も、プライドなんかなかった。
もし、彼が自分の目の前からいなくなったら、もう自分はどう生きていっていいのかすら分らない。
(ハリー……、ハリー……)
そんな彼を見つめて、 ドラコの体は小刻みに震えている。
(―――ハリー、この世界で君は幸せではなかったのか?)
大きく頭を振った。
(君の言うとおり幸せだった。誰も僕に期待もしていなかったし、注目すらされなかった。日々は平凡で穏やかに過ぎた。変化のない毎日が、とても嬉しかったんだ……)
ドラコはその答えに、満足げに頷いた。
(……そうだ、ハリー。それは、とてもいいことだ。きみには穏やかな毎日を過ごす権利がある。君の望む世界で、幸せな毎日を過ごしてほしい。それは僕の心からの願いだ……)
やさしく包むような声だ。
(だけど!!)
ハリーは顔を上げて、 ドラコをにらみつけた。
(だけど、この世界には、君がいないじゃないか!!!どうして、望む世界には君がいないんだ?!ひどいじゃないか!君に触ることも、肩を抱くことだって、できやしないじゃないか!!!)
(すまない、ハリー……。僕は君のいる世界にはいられないんだ。なぜなら、僕の記憶はきっと君の中では、幸福ではないからだ……)
ポツリと ドラコは告げた。
(そんなはずはない!僕は君のことを思うだけでこんなにも幸せになる。僕は何より君が必要なんだっ!)
ハリーはたまらず、そのディスプレーに両手をかけた。
ドラコの青い瞳にも、涙が盛り上がっているのが見えた。
(……君はいつも真剣だった。そして誰よりも、やさしかった。周りのみんなから勝手に注目され、期待ばかりを押し付けられて、祭り上げたりもした。結果がよくない場合は、冷たくあしらったりするたびに、君はいつも不満そうな顔をした。「僕は一度だって、こんなことを望んだことがない!」そう言って。かわいそうな君は、生まれたときから運命の選択の余地がなかった。勝手な世間に振り回されてばかりいた。でも本当はみんな、君のことが大好きだったんだ。ハリー……。君の存在そのものが、みんなの生きる希望だったんだ)
瞳を綴じると、彼のほほを涙が伝った。
(もう、いいんだ、ハリー。もう全ては終わったんだ。君は最後まで勇敢だった。まさしく我われの英雄だ。恐怖は去ったんだ。君が見事に蹴散らした。君に課せられた足かせは、どこにもないんだ。君は他人のために生きる必要は、もうないんだ。──今度こそ君は、誰かのためではなく、自分自身のために生きてくれ)
そうゆっくりと告げると、 ドラコは立ち上がった。
(……もう泣くな。僕なんかのために)
かすかに微笑むと、きびすを返す。
彼が振り返ると、そこには「ドア」がついていた。
何もない真っ白の空間に、白いドアだ。
ドラコはそのドアに向かって歩いていく。
ノブに手を掛けると、扉を開いた。
一瞬のまぶしい閃光が辺りを包んだ。
そのドアの向こうに ドラコは消えていこうとする。
ハリーは画面に手を伸ばした。
その途端に、グニャリと何かが、歪んでゆく感じがした。
「いいのか、ハリー?全てをなくすんだぞ」
誰かの声がした。
もしかしたら、自分の声かもしれない。
「この愛すべき、平凡で穏やかな日々がなくなってもいいのか?」
後悔なんか、あるものか。
ハリーはその中に飛び込むことを、躊躇しなかった。
作品名:Happy Life 作家名:sabure