Happy Life
第6章 世界の向こう側
目がさめると、そこは何もない白い部屋だった。
白いドアが1つあるだけの、閉鎖された空間だ。
真っ白の色のない空間に、自分は寝ていた。
何かを思い出そうとすると、ひどく頭が痛んだ。
「……目が覚めたのか、ハリー?」
その声に振り向くと、彼がいた。
ディスプレーの中ではなく、現実に彼はそこに立っていた。
薄青い瞳、サラサラと音がしそうなほど癖のない髪。
何度も何度も夢に見た、 ドラコがそこにいた。
現実に存在する彼を見ただけで自分は幸福になるだろうと思っていたのに、そうならないことにハリーは愕然とする。
彼は違っていた。
……何かが、違っていたのだ。
「……君は誰?本当にドラコなのか?」
思わずそんな疑問が口をついて出た。
彼は薄く笑った。
「―――もう5年だ。あれからもう5年の歳月が過ぎたんだよ、ハリー。あの最後の戦いのあと、君はひどい傷を負った。そして、それから君はずっと眠り続けていたんだ。傷が癒えてもずっと、このベッドで眠っていた。だから、君の中にある僕の記憶と、今目の前にいる僕とが結びつかないのは、よく分かる。5年もたったのだから」
ドラコは肩をすくめた。
「眠っているあいだは、幸福だったかい?」
ドラコは彼の寝ているベッドの端に腰を下ろした。
「あのまま眠り続けていたほうが、君には幸せだったのかもしれないな。ハリー」
そっとハリーのほほに手を添える。
「この現実は君にとって、悲しいことや、辛いことのほうが多すぎるから……」
暖かい指先が、じんわりとハリーの中に沁み渡っていく。
涙が自然とわき上がってくるのが分かった。
「……一度だって僕は、幸せじゃなかった。だって、あそこには君がいなかったんだから……」
ハリーは唇を噛んだ。
「僕は毎日仕事をしてたんだ。単純な作業だった。気のいい仲間に、気楽な毎日。誰も僕のことを知らなかったし、指をさして噂されることもなく、迷惑な期待などかけられなかった。穏やかな日々だった……」
ハリーは今までのことを彼に話そうとするのだが、言葉に出す端から記憶があいまいになっていく。
まるで砂が指からこぼれ落ちてゆくように。
「ぼくは……、僕はそれから……。僕は―――」
言葉が続かない。
自分の頭の中に灰色の靄がかかっていた。
「僕は何も思い出せない!」
ハリーは頭を振った。
「何も思い出せないんだよ、 ドラコ!!」
「それでいいんだ、ハリー。辛いことは思い出すな。運命はいつでも、君に残酷で辛いことばかりを押し付けてきた。君の記憶がそれを放棄しても、仕方がないことだ」
ハリーは顔をゆがめた。
「目の前にいる君のことですら、もう、何も覚えていないんだ。一切、何も!思い出のひとつも出てきやしない!あれほど好きだったと思ったのに。何も記憶がないんだ……」
ゆっくりと ドラコは、彼のほほをなでた。
「だったら、もう一度、目をつぶって眠るといい。今度こそ、君はその中で、幸せな日々を過ごすことができるだろう。僕のことも、この世界のことも、みんな忘れて。それが君にとっての、本当の幸福なんだ……」
その言葉を聞き、ハリーは低く笑った。
「……いったい、それのどこが、僕の幸福なの?」
じっと、真剣な瞳を ドラコに向ける。
「もし僕がまたこのまま眠ったら、君はどうするの?眠り続けている僕を見ることが、君の幸せだと言うのかい?動かない僕の傍らにずっと座って、君は何を考えるの?息だけしている、動かない僕を見て、君はどう思うの?僕はそんな一人ぽっちの君を想像するだけで、たまらなくなる!」
ハリーは起き上がると、 ドラコを力の限り抱きしめた。
「―――たまらないよ、 ドラコ!!」
この腕の中にある感触に、ハリーは泣きそうになった。
もっとも手に入れたいものが、この中にある。
しかしドラコは相手の胸を押して、腕から離れた。
「……ハリー、もういいんだ。十分だ。君に責任は何もないんだ。もう、君は自由だから、どこへでも行くがいい。このベッドから出て、君の望むところに歩いていくんだ。」
ハリーはじっと彼の顔を見た。
「君は、素直じゃないね」
ドラコの鼻先をつまんだ。
「君は意地っ張りの、あまのじゃくで、嘘をついてばかりだ。いつも逆のことを言うね」
ニヤッと笑う。
「そういうところもひっくるめて、僕は君が好きでしょうがないんだけれど」
ゆっくりとその柔らかなほほを、両手で包んだ。
「僕はどこにもいかない。ずっとここにいる。君のそばに、ずっといるんだ。それが、僕の一番の幸福なんだ」
まるで小さな子どもに言い聞かせるように、ゆっくりと確かな声で囁く。
「僕は行かない」
再びはっきりとそう告げた。
ドラコはその言葉に唇を震わすと首を振った。
「君はここにいないほうがいい。ヴォル……、例のあの人のことは、みんな解決したわけじゃないんだ。あれから世界はもっと入り組み、混沌として、世界が抜き差しならないことになっているんだ。もう君が傷つくのを、僕は見たくない!」
涙がほほを伝っていく。いく筋も。
「……君は救世主じゃないんだ、ハリー。君は強くもないし、不死身でもない。怪我をすれば血を流す、生身の人間なんだ。……君はハリーなんだ。ただの普通のハリーだ……」
彼はやさしく、その震えている背中をなでた。
「……泣かないで、 ドラコ。泣かないで。世界がどうなろうと、僕は知ったことじゃないんだ。本当は―――、本当の僕は独りよがりな人間で、とっても心が狭いんだ。他人のために何かしようなんておこがましいこと、一度だって思ったことはないよ」
苦笑し、言葉を続ける。
「……ただ君の泣き顔を見るのが、とても辛い。君を悲しませているものは、何なの?僕は君のことだけを救いたい。僕が大切なのは君だけだ」
ドラコは驚いた顔で、ハリーを見た。
「……君はバカなのか、ハリー?」
「ひどいな、その言葉。僕の一世一代の愛の告白を、ばか者呼ばわりするなんて。君は本当にかわいくない!」
ハリーは笑った。
「君のためなら、何度だってあいつを倒すよ。何度ゾンビのように生き返ろうが、例え僕の腕や足がなくなっても構わない。世界なんか救いたくもないし、ヒーローになろうなんて、これっぽっちも思わない!……そんなの、どうでもいいことだ。ただ君が僕のそばで、ずっと笑っていてくれるなら、僕は何だってするさ。これからどんなことが待ち構えていようと、怖くはない」
涙を浮かべて自分を見詰めている彼の瞳は、なんて青くて美しいんだろうと、うっとりとハリーは思った。
自分に必要なのは目の前にいる相手だけだ。
どんなことをしても守りたい相手だった。
「―――で、君の答えは、 ドラコ?」
澄んだエメラルドのような瞳で相手を見つめ、その指先に口付ける。
ドラコはその感触にまた涙をこぼした。
空白だった5年の時が今再び動き出したのを感じたからだ。
ハリーは生きていた。
―――そして戻ってきてくれた。
それ以上の喜びなど、どこにもなかった。
ドラコもハリーと同じ気持ちだった。
相手がいればもうそれだけで十分だった。それ以上の望みなどなかった。
作品名:Happy Life 作家名:sabure