The Beautiful Beast.
その日から奇妙な同居生活が始まった。彼女は俺の角を見て、獣だと知っても変わらず微笑んでいたし、俺のことについても聞かなかった。もちろん他愛のない話は少ししたけれど、例えば過去のこととか深いことには触れて来なかった。
そして俺も彼女がなぜ此処に来たのか不思議には思ったけれど、大して興味も湧かなかったから聞かなかった。泊まる部屋は有り余っていたし、食事やらお金には困らなかった。なぜならこの城には必要なものが揃っているからだ。これも恐らく呪いのせいだけれど、詳しくは知らない。
七日間ほど生活していて不便に思ったことや困ったことはない。
変わったことと言えば、話相手が出来たくらいだ。とは言っても彼女はあまり喋るわけではないようで、俺はというと長い間会話というものをしていなかったから、むしろ声が出る方が不思議だった。
俺が彼女について知っていることは、本が好きだということ。此処にはたくさん本があるから、いつもそれを読んでいる。それ以外にすることもないから、仕方がないかもしれないけれど。――そう言えば、名前すら知らない。
なんとなく、気まぐれで今度聞いてみようと思っていたらドアが開く音がして、彼女が来た。
「ねぇ、名前は?」
俺が尋ねたことにびっくりしたのか、数秒停止していつもどおり、微笑んだ。
「波江です。海の波に江戸の江で、波江」
「波江……」
復唱する。ああ、覚えた。そう思って、‘何か’を覚えようとするなんていつ振りだろうと思った。
「貴方は?」
名前?俺に、名前なんてあったっけ。……ない。人間の時の名前なんて捨ててしまった。獣になってからは必要なんかなかった。誰かに呼ばれることなんてなかったから。
「名前なんてない」
「え?……なら、貴方のことを何て呼べばいいかしら」
「好きなように呼べばいい」
なんなら、
「なんなら、君が俺に名前をつけても構わない」
そう言って、驚いた。今……、今俺は、なんて言った?なんで俺は彼女に名前をつけろと、暗に言ったんだ?必要ないのに、誰も俺のことを呼ばないから。
いや、いる。彼女が――波江が。
自分自身の思考に混乱していると彼女がぽつりと音を零した。
「――イザヤ」
そしてはっとしたように顔を上げて、
「イザヤ!臨むに、なり……也で臨也」
彼女から零れた言葉に視線を上げると、少し不安そうな顔で首を傾げていた。
「だめ、かしら」
「いいよ。俺は今日から臨也だ――よろしく、波江」
俺はそっと手を差し出す。波江はにこりと笑って手を重ねた。けれどハッとしたような顔をして、ぽつりと呟く。
「……冷たいのね」
「あぁ、……血が通ってないからね。そういう波江は、温かいね」
少し、苦笑してみせた。人に触れるのは久しぶりだ。こんなに、温かかったのか……。俺にとっては心地よいものだけれど、彼女にとっては気持ち悪いものだろうと思い離した。
「なんだか、悲しくて……寂しい感じがする」
そう言う彼女こそが悲しそうに視線を落として、俺の手に触れた。
「そんなことはないよ」
俺は後悔していないのだから、という言葉は飲み込んだ。わざわざ言うべき言葉ではない。彼女には関係ないのだから。彼女にとって、俺は昔から今までずっと獣。人は知らない。知る必要がなかったから。――それでいい。
彼女を安心させるために微笑んだ。表情をつくったことなんてこの姿になってからなかったから、上手くつくれなかった。けれども彼女も笑ってくれた。いつも通り、綺麗な笑みで。
それに安堵した俺は、けれども‘何か’を怖がっている自分に気づいた。そして、出来れば彼女に近づかない方がいいということを。
――それがなぜなのかは、わからなかったけれど。
作品名:The Beautiful Beast. 作家名:普(あまね)