太陽の唄
その姿を、少し離れたところから見つめる人影があることに、気付く事はなかった。
怖くはないと思う。
普段の姿を見ている限り、とてもモビルスーツを駆って戦場に出る姿はそうと知らない限り想像も出来ないだろう。けれど一度戦場に出れば、その力に脅威を感じる。けれど、キラ自身に恐怖を抱くわけではない。
「…ちゃんと言った方がよかったかな…。」
まるで、心が悲鳴を上げているようだった。怖くないんですか、と聞いた少年は、必死に答えを求めているように見えた。誰かに、否定してもらいたかったのかもしれない。
自分は、答えられただろうか。
艦長の私室に向かいながら、ずっと考え込んでいた。扉の前に立って、軽く頭を振る。
「…やめやめ。それはまた後ってことで。」
在室を示すグリーンのランプ。多忙な艦長が珍しく部屋にいるのは、自分が無理を言って下がってもらったからだ。誰も彼もが疲労の色を濃くする中で、誰よりもそれを感じていながら微塵も見せない姿が痛々しくて、つい余計なことをしてしまったかもしれない。
軽い自己嫌悪を感じながらも、コールボタンを押すと返事が返ってきた。
「…フラガだ。ちょっといいかな。」
どうぞ、という声に従って部屋に入ると、ふわりと香ばしい香りが漂っていた。
「そろそろ、いらっしゃるんじゃないかと思って。」
栗色の髪をゆるく束ねて、彼女は微笑んだ。
「ちょうど良かったみたいですね。今入ったところですから。」
カップを二つ出して、てきぱきとコーヒーを入れる姿に幾ばくかの安堵感を覚える。
「…悪いね。」
ため息とともにソファに体を沈める。目の前に出されたカップのから立ち上る香りに、目を細めた。
「なんで俺がくると思ったんだ?」
そういえば、と思い出して尋ねると、思わせぶりに笑う。
「…先ほど、格納庫で見かけましたから。きっと…キラ君のことだろうと思って…。」
わずかに眉を寄せた彼女に頷く。
「ああ…まあそんなに深刻な話じゃないんだ。ただちょっと俺の部屋の隣、空いてるなら貸してくれって話で。」
部屋ですか、とつぶやいて手元の端末に艦内図を呼び出す。
「…確かに、仕官宿舎のほとんどは空室です。もともと士官と呼べる人間も少ないですし。でも…」
言いよどんだ彼女に、同意するように頷いた。
「仕官でもない、まして正規の軍人でもない子供に仕官宿舎を与えるとは何事かって言われそうだよな、副長さんに。」
冗談めかした言葉に軽く笑って、彼女は答える。
「…ナタルにはうまく言っておきますわ。一応、そのくらいの権限は持っているつもりです。」
ほんの少し、寂しそうに微笑んだ表情に気付かないふりをしてコーヒーを啜った。
「…まあ、ストライクの中で寝泊りするよりはマシってことで、何とかしておいてくれ。」
その言葉に驚いたように顔を上げる。
「G…の中?彼には共同の宿舎があるはずですが…」
居辛いんだろうな、といって笑う。
友人たちの反応、クルーたちの反応、避難民たちの反応。そのすべてが、少年にとって決して暖かいものではなく。
「一人になりたいときってさ、あるだろ。あいつにはそこしかないんだろう。」
俺たちのせいで。
その言葉は飲み込んだ。
「…とにかく、そういうことで。許可が貰えるんだったら、あいつのことは出来るだけ引き受けるよ。」
立ち上がりながらそういうと、彼女も笑みを返した。
「すみません、本来なら私が…」
そう言って頭を下げかけた艦長を制して、いいから、といってカップの中身を飲み干した。
「あんたはほかにもいろいろ心配することあるだろ。今のところ、たった二人きりのパイロットだし、あいつのことも気に入ってる。大丈夫さ。」
軽く肩をたたくと、ご馳走様、と言い残して背を向けた。
「…よろしくお願いします。」
その言葉を背中で聞いて、片手を振った。
でも、とマリューは思う。
「…なんだか、フラガ大尉がこんなに気を配るのも不思議ね。」
面倒見のいい人だとは聞いている。けれどそれは、不特定多数の人に対してであって、誰か一人に固執するなんて。
キラの事を話題にするたび見せる、表情。こんなにも柔らかく微笑む人だとは。
まるで。
「…キラ君に、恋でもしているみたい…」
扉を開けたその人は、一瞬動きを止める。恐る恐る振り向いたその顔が微かに赤く染まっているのを見て呆然とした。
そのまま何事か呟いて、彼は扉の向こうに消えた。
「…聞こえたのかしら。」
あの顔を見れば聞こえたのだろう、とは思っても。
不意におかしさがこみ上げる。ふふ、と笑って空のカップを手に取った。
「…大丈夫ですよ、大尉。」
扉の端から聞こえた言葉。聞こえないと判っていても、返事はするべきだと判断する。
「内緒話は得意ですから。」
参ったなあ、と盛大にため息をつきながら通路を進んでいた。
「女ってのは、鋭いなあ…と。」
それよりも、あの言葉に反応したということは。
どこかで、それに気付いてはいても、気付かないふりをしてきた。それはきっと、自分にとって必要ないことだと。
「…今更、そうやって誤魔化すのか…」
本当は、とっくに判っていたんだ。
自分が、あの小さな背中を押したときから。
気付けば、いつも考えている。強い眼をした少年のこと。痛みを堪えるように微笑むたびに、抱きしめたいほどの衝動に駆られることも。
指摘されて、自覚してしまえば止められない。
リネン室から寝具一式を引っ張り出してため息をついた。考え込んでいる間にも、仕事はしているらしい。無重力に従って重さをほとんど感じないそれらを通路に漂わせ、細々とした身の回りの支給品をそろえてから扉を閉める。
自室に向かって歩きながら、あの子はまだあそこにいるのかと思い出す。
薄暗く、人気のない通路の端。堪えきれない感情の波を押さえるために、涙を流すのだろうか。
「…キツイよな…」
それしかできない少年も、見ていることしか出来ない自分も。
傍にいてやりたいと思う。できれば、抱きしめてやりたいと思う。大丈夫だと、おまえはちゃんと人間だからと言ってやりたい。
怖くなんかないと、きちんと伝えたい。
自嘲するように笑う。
そんな上辺だけの言葉なんかじゃなく、本当に伝えたいのはこの気持ちの筈なのに。
「…言えるわけ…ないよなあ…」
誰もいない部屋の、ロックを解除して中に入る。
冷やりとした室内の空気に眉をしかめ、空調のスイッチを入れた。持ってきた寝具を整えて、ベッドに腰を下ろす。さして広くもなく、自分の部屋ともほとんど変わらない部屋は、それでも今の少年が落ち着いて休息を取るには十分だった。女性陣の私室とは距離があるし、隣にいる自分にも、最近はずいぶんと信用を置いてくれている。
「…傍に居て欲しいのは、俺のほうかもな。」
それだけで安心するのは、彼だけではなく。
明日には、自分はここにいないかもしれない。いつ、死ぬかもしれない状況は、不安と恐怖は今この船に乗っている人間のすべてに、重くのしかかる。
それでも。
ただ、彼が笑って過ごせる時間が作れればいい。
「…好きだなんて、言わないからさ。」