やさしさライセンス
酷く近付いたところで、イヤな夢を見るんです、とキラは言った。
「…何度も…あの子が…ッ」
ひとすじ、眦から流れた雫。きつく眉を寄せて、繰り返す。
護れなかった、と。
確かに微笑んでいたはずの表情は、すぐに辛そうな呼吸に取って代わる。
「…もう、いいんだ。」
お前は良くやったと、その頭を撫でる。
「もう…終ったんだ…キラ。」
目を閉じた少年の頭をしばらく撫でて、少しでもその眠りを妨げるものから護りたかった。
どれだけ後悔しているのか。
それは本人にしか解らない。けれど、今自分が思う事はたったひとつだ。
「…お前が、無事で良かったよ…」
聞こえているのかは判らなかった。けれど、本当に、と呟いた時、微かにその表情が和らいだ気がした。
その寝顔を見て、頬を緩ませる。
本当は、誰よりも。
護ると決めたのだから。
「…大丈夫さ。」
幾分落ちついた寝息を確認して触れるだけのキスをする。
身体中がベタベタして気持ちが悪い。
まる二日、寝込んでいたらしかった。ぼんやりと起き上がると、医師が近付いて来て気分はどうだい、と訊いた。
「…だいぶ、いい、です。」
酷く喉が乾いていて、うまく言葉にならない。自分でも驚いた。差し出されたグラスを素直に受け取る。冷えた液体が喉を通ると、それまでぼんやりとしていた意識が現実に戻ってきたようだった。
「さてそれじゃあ、ちょっと様子を見せてもらうよ。」
簡単な質問と、心音や血圧を測ると、医師は頷いた。
「…うん、問題なし。もう部屋に帰っても大丈夫だな。」
そうして、食事は頼んでおくから自室に戻っているように言われてそれに従う事にした。ゆっくりと立ちあがると、多少の眩暈はしたものの、自分で歩いて帰れるようだった。
有り難うございました、と言って医務室を出ると、与えられた部屋に向かって歩き始める。
酷く静かだった。
地球に降りたらしいということは、所々に設置された窓から窺える。ただし、それも無傷で、とは行かなかったらしい。
あの、大気圏での戦闘。
恐らく、第八艦隊は全滅しただろうと思った。たった一度まみえただけの、厳しくも優しい老将校とももう逢う事はない。
寝込んでいる間、散々見せられた映像は酷くはっきりと覚えていた。全てが霞んだような世界の中で、それだけが鮮明に浮かび、消えていったから。
また、護れなかった。
残るものは、後悔と無力感。
通路の途中で立ち止まり、目を閉じた。気を抜けば、泣き喚いてしまいそうだった。
「…もう、逃げない…」
随分と大それた事を決めたものだ。知らず、唇の端を吊り上げる。それは嘲りの笑み。自分に対しての、嘲笑。
「…当然、だよな。」
ずるずると、その場に座り込む。
ただ、宙を見上げて、ごめんなさいと呟いた。
そもそもどうして、こんな感情を自覚してしまったのだろう、とひとけのない格納庫でいつものようにぼんやりとしていた。
どうしようもない事と、どうにかなる事の差が大きすぎて、我ながららしくないな、と苦笑する。
地上に降りた所為もあって、メビウスに代わって新しい機体が目の前にある。先ほど不謹慎ながらも嬉しそうにそれを覆っていたシートを外すと、流線型の白い機体が姿を見せた。基本操作に大差はないので、今更細かくマニュアルを読む事もなく、ただそのパイロットシートに座って感覚を掴む。しばらくコンソールをいじって基本設定を終えると、こういう事の好きそうな少年の事を思い出した。と、同時に本当にらしくもなく不意に頬が緩む。
それが恋心だと自覚するのは簡単だった。
本当に、一目惚れに近いと言った方が正しいくらいに突然だった。理由を問われても答え様がない。それくらい、自分の中ではあまりにも自然にそう思っていた。
尤も、向こうがどう思っているかは解らないから、想うだけに留めてはいるけれど。
「…そう言うところが、らしくないんだよな…」
思わず溜息を付いた。
触れたい、と想う心を押し留める事が辛くて、却って不自然に接しているかもしれない。
胸ポケットを探って箱を取り出す。随分とくたびれた様子の煙草を取り出して火を着け、軽く目を閉じる。
こうしてここにいるのは、キラが良く来る事を知っているからだ。
特に頼みもしないのに、ここの整備士達はなぜかキラが自室に戻った事を教えてくれた。それを聞いて、溜め込んだものを吐き出す為に、彼はきっとここに来るだろう、と思った。
いつの間に設置されたのか、宇宙では見かけなかった空き缶の灰皿が置いてあった。そこに灰を落とすと、紫煙が大きく揺れる。空気が動いた証し。
ああ、来たなと思うと、振り返るまでもなく向こうから呼ばれた。
「…た…少佐?」
呼び名が変わった事も聞いているようだった。尤も、彼自身も正式に階級が与えられたのだから、当然の事だった。
「…もう、いいのか。」
ヤマト少尉、とわざとらしく呼ぶと、酷く嫌そうな顔をした。
「…それ…その呼び方、止めてもらえませんか…」
眉を顰めたままそう言った。
「冗談だよ。」
喉の奥でひとしきり笑うと、裏切らないなあ、と続けた。
「…多分、そう言うんじゃないかと思ったんだよ。」
悪かったな、と言って大分短くなった煙草を消した。
拗ねたように別にいいですよ、と呟いた横顔に、表情がある事を確認して安堵した。けれど、目許は少し腫れたままだった。
「少佐は、ここで何してたんです?」
ストライクの調整モニターに向かいながら、キラはそう言った。
別に、と返事をしてその隣に並ぶ。
「…お前が、来るかと思ってさ。」
え、と言ってキラは顔を上げた。
「ああ、ほら、一応病みあがりだからな。」
我ながら苦しい言い訳だった。それでもその答えに納得したらしく、済みませんと言って微笑む。
「…でも、そんなに心配してもらうほどじゃないですよ。」
慣れてしまったのか事務的にキーボードを操作しながらそう言った。
「…遠慮するなよ。」
そう言って軽く視線の少し下にある後頭部を叩く。
「それと、無理もするな。」
そう続けると、キーの上を滑るように移動していた両手が止まった。幾分諦めたような溜め息に続いて聞こえたのは、聞き取れない程の呟き。
「…なんでも、お見通し、ですか…?」
そう言って辛そうに微笑んだ。
正面から受け止めた瞳は、頼りなく揺れていた。
それを見かけたのは、偶然だった。今の自分には、必然と言うべきかもしれない。
隔壁の影に隠れるように、二人は唇を重ねていた。
一瞬、思考が止まる。
けれど、行動は素早かった。別に隠れる必要もなかったな、と思い返したのはその姿が見えなくなってからだった。通路の角に背中を預けて、溜息をひとつ。
浮かんだのは酷く子供じみた感情だった。気に入っていたおもちゃを取り上げられたような、自分勝手な怒り。
落ち着け、と呟いて目を閉じる。
「…子供じゃないんだから。」
最近、よく一緒にいるなあとは思っていたけれど。
「…そういう…事か…?」
語尾が疑問詞になったのは、それより以前に見かけた少女の表情を思い出したからだ。どう考えても、恋愛感情とは程遠い、冷たい瞳。