こんな休日もいいかもしれない
放り出された子供を受け止める為に足元を見もせずにキラは駆け出した。コンクリートと少年の間に入ってなんとか受けとめたけれど、勢いが殺せずに背中から下に落ちる。呼吸が詰まって、衝撃で目がちかちかした。軍人とはいえ、フラガのように長年鍛えてきたわけでもなく、同じ位の年の学生達に比べても自分が細い事は良く分かっている。子供の体重、そこに僅かながらも落下する重みが加わっているのだから支え切れなくて当然だった。
「…無事、かな…?」
少し咳き込んでなんとか声を出すと、少年は呆然としたまま頷く。
下が草地で助かったな、と思いながら身体を起こした。肋骨のあたりが衝撃で軋むように痛んだけれど、折れてはいない。
少年を下から支えて先に上らせると、キラもコンクリートの斜面を登ってガードレールを乗り越えた。
すっかり暗く沈んだ道をマンションに向かって並んで歩いていると、不意に少年が小さくごめんなさい、と言った。
「…大丈夫だから。」
そう答えて笑みを浮かべる。
拾ってきた帽子を少年の頭に乗せて、そこで自分の頬が濡れている事に気付く。不思議に思いながらもそこに触れて、目の前にあるマンションのエントランスから届く光で確認して絶句した。
「…いつやらかしたんだろう…」
指先をべったりと染めているのは鮮血だった。そう言えば、触れたところがやけに熱い気もする。
「お兄ちゃん、血が出てるよッ」
明るいところでそれに気付いた少年が真っ青な顔をして言った。そうして慌てたようにポケットを探って小さく畳まれたハンカチを出した。
「これっ…これで、大丈夫?止まる?」
そう言って差し出されたハンカチを苦笑しながら汚れるからいいよ、と言って柔らかく押し返すと、少年は怒ったような顔をした。
「ダメだよッお父さんが、血がいっぱいでたら死んじゃうって言ってたもんッ」
そう言うが早いか、気が抜けたように立っていたキラのコートの端を掴んで引き寄せる。不意打ちのような力が掛かって膝を折ると、小さな手が頬に触れた。派手に切れた傷口にハンカチを押し当てて、お母さん帰ってきたかな、と呟いた。
「お母さん、病院でおしごとしてるから、治してくれるよ。」
押さえてなきゃダメだよ、と言う少年の勢いに押されて頷くと、キラの手を引いてエレベーターに乗り込む。頭の上にあるボタンを押す姿を上から見ていて、折角拾いに行った帽子、汚れてなきゃいいけどと思って苦笑を浮かべた。
ドアの開く音と共にただいま、と控え目に声がした。
戻ってきたな、と思っていると勢いよく子供が廊下を走って来る足音がして、ソファの上にいた少女が顔を上げた。
「お兄ちゃん?」
走って来る子供がぶつからないように、リビングに続くドアを開けると、切羽詰った顔をしていた少年がフラガを見上げてごめんなさいと言った。
「…うん?ま、そんなに子供が気を使うような事じゃないさ。」
リデラがお待ちかねだよ、と言うと少年はそうじゃなくて、と言って玄関の方を振り返る。
「あの、お兄ちゃん…けが…」
そこまで、と言ってキラが少年の後ろから頭を軽く叩く。
「ほら、僕は大丈夫だって。」
いつもの調子でそう言ったキラの顔を見てフラガは絶句した。
「…お前、今ならスプラッタ映画に出られるぞ…」
ようやく搾り出した奇妙な感想に、キラは笑った。
顔の左半分を真っ赤に染めて、小さなハンカチをそこに押し当てて、一応止血しているように見える。
「…ちょっと遠慮したいですね。」
そう言って微笑うと、途端に少しだけ顔を顰めた。そうして顔洗って来ますと言ったキラがバスルームに消えると、フラガは救急箱あったかな、と言うとんでもない呟きを洩らした。
何時の間にか二人並んでフラガの後ろに立っていた子供達を促して、キラが戻ってくる前に感心を他に向ける事にした。キラの血に染まった顔を見て蒼白になっていた子供達に、大丈夫だよと言ってダイニングテーブルの方に促した。
「えーと、お腹空いてないか、お前達。」
そう言いながら、キラが冷蔵庫に入れてあったプリンを出して、もう一度ココアを淹れる。今度は二人分のカップと、それより少し大きなカップを二つ出して、コーヒーメーカーを準備した。キラ用に、ミルクと砂糖も用意する。
「ほら、ここ座って。あのお兄ちゃんの力作だぞ。」
ダイニングテーブルの上に並べられたデザートに、子供達は一瞬で表情を変える。行儀よく手を洗って、二人揃って椅子に座る。少しテーブルも椅子も子供達には高い気がしたけれど、少女の椅子にはクッションを敷いてなんとか合わせた。
いただきます、と声を揃えた子供達がスプーンを動かし始めると、顔を洗ったキラがリビングに戻って来る。
「…うー、今頃痛くなって来た…」
そう呟くキラは、ハンカチの変わりに引っ張り出したタオルを頬に当てていて、それも既に赤く染まり始めている。
「血が止まればな、隣りの奥さんじきに戻ってくるって言うし…」
取り敢えず、しばらく止血しておく事にして、おやつに夢中な子供達を見たキラが笑みを浮かべた。
「…成功ですか?」
プリンに限らず、卵を使った蒸し物は難しい。本職の職人達が作り出す、あの滑らかな食感はなかなか素人には出せない。どんなに上手くいっても、一番上には幾つかの穴が開いてしまう。今日はそれが少なかった。パンプディングは少し失敗したけれど。
「…食べてみる?」
苦笑混じりにフラガは言った。
お菓子より、怪我の心配しろよと言ってキラをソファに座らせると、リビングに置いてあるチェストの中を漁ってようやく小さな応急セットを探し出した。持ち歩くように纏められたキットの中に、ガーゼと大きいサイズのバンドエイドを見付けてこれでなんとか出来るかな、と思いながらキラの頬に当てられたタオルを外す。
「…結構、派手にやったんだな、お前…」
その呟きに、さっきびっくりしましたよ、と言ってキラは笑う
「真っ暗で、緊急事態だったんです。あの子に怪我させたら、それこそ大問題ですから。」
僕は普通より丈夫だから、大した事ないですよ、と言って微笑むキラに、少しだけ腹が立った。
「…俺は隣りの家のガキよりお前の方が大事だぞ。」
低い声で囁くように告げた言葉に、キラは驚いたように目を見開いて、それから綺麗な笑みを浮かべた。
「…有り難うございます。」
青白い肌に一筋、赤く走る傷口はそれほど深くはなかった。痕でも残そうものなら、大変な騒ぎになる事が想像出来るだけに、フラガはそっと安堵の溜息をつく。少し厚く、適当に畳んだガーゼを当ててバンドエイドで固定する。手当てをしながら事の顛末を聞いて、これだけで済んで良かったと心底安堵した。
「でも背中、打ち身かもしれません…」
苦笑しながら言うキラに、さすがに子供のいるところで上着を脱げとは言えずに、隣家の婦人が来たらついでにきちんと看てもらおう、と決めた。
独特の香りが漂って来たところでコーヒーをカップに注いで、片方には半分のミルクと少し多めの砂糖を足して、ソファに座ったままコートの染み抜きに勤しむキラに渡す。
「…ダメですかね…」
作品名:こんな休日もいいかもしれない 作家名:綾沙かへる