雪の華
その中に、自分と一緒に来たはずの少年の姿がない。普通に話しているつもりでも、風呂場は反響するから必要以上に大きく聞こえる。
「夕食の後にするってさ。」
そう言った少年の声も、少し離れた所にいると言うのに良く響いて聞こえた。
「…少しお話してもいいですか。」
何時の間にかフラガの隣りに来たアスランの言葉に、不思議に思いながらもどうぞ、と返す。
「…キラ、上手くやってますか?」
ほんの少し躊躇うようにアスランは口を開く。きちんと食事は採っているのか、とか、職場でもうまくやっているのか、とか。まるで保護者のように次々に出される質問に苦笑して、大丈夫だよと答える。
「あいつも努力してるし、可能な限りは俺が助けてやる。…大丈夫だって。」
そう言って軽く笑みを浮かべると、伏せたままだった視線を真っ直ぐに上げて、あなたにとっては、とアスランはゆっくりと言う。
「…キラは、あなたにとってはどういう存在なんですか?」
驚くほど真剣な瞳に、フラガは柔らかく微笑う。
そうして、当然のようにその言葉を口にする。
「…大切な人だよ。」
そうですか、と言ってまた俯いた少年を置いて、ひと足先に部屋に戻るためにじゃあまた後で、と言って硫黄臭の漂う浴室を後にした。
「…アレでいいのか?」
気を利かせたのか、少し離れた所にいたらしいディアッカの言葉に頷いて、アスランは微かに笑みを浮かべる。
「…今の所は。」
けれど、少しだけ悔しいのも事実で。
「邪魔をしないとは言ってないけどな。」
悔し紛れに呟くと、呆れたように同僚は笑った。
さりげなく邪魔をされている気がする。
夕食の前に三人で風呂に行って来てから、どうにも自分の知らないところでなにかあったらしいとキラは思う。宿の人が用意してくれた布団に転がってパソコンをいじっている間も、部屋の中にはキラひとりしかいない。フラガは隣の部屋に呼ばれて遊びに行ってしまっている。
「…つまんない。」
持ち込んだ仕事はちっとも進まず、何度目か分からない溜息をつく。
視線の先には、時計。
「…もう、知りませんよ少佐。」
後少しで今日が終る。今日だけでなく、今年が終って新しい年になる。無理に合わせた休暇。一週間も一緒に過ごす休暇は初めてだと言うのに、ここの旅館の人達の宴会に呼ばれてすっかり仲間入りしてしまったフラガを、無理に呼び戻すのも申し訳ないような気がして、仕事を理由に自分だけ部屋に篭っている。
「…まあ、まだ時間あるし。」
温泉を堪能するのも悪くはないかな、と思い直して起き上がったところで、少しだけ赤い顔をした仲居さんが顔を出す。
「お連れの方が、露天風呂でお待ちですよ。」
上機嫌でそれだけ言うと、見ているこっちが慌てるほどの不安定な足取りで女性は廊下の向こうに消える。遠くから楽しそうな笑い声が微かに聞こえた。
「…露天風呂…?」
首を傾げながらも、言われた通りに館内の案内板に従ってそこに行くと、妙な方向に散らかったスリッパがひとり分だけ残っていた。
「…少佐?」
衝立の向こう側に声を掛けると、間延びした返事が聞こえた。
露天と言うだけあってガラスの向こうは屋外で、当然真冬の山の中、恐る恐るガラスの引き戸を細く開けると、冷たい風が首筋を撫でて行く。
「寒い…」
首を竦めてビニールハウスのように囲まれた脱衣所らしきスペースに、やはりぞんざいに籠に放り込まれた多分フラガの物だろう着替えに溜息をついて。寒かったけれど、随分とご機嫌な声に誘われるまま露天風呂に顔を出すと、水面になにか浮かべて頭にタオルを乗せた姿が視界に入る。
「…なにしてるんですか…」
呆れたように呟くと、フラガは笑って入って来いと手招きをする。
石が積み重ねられた湯船に、そこから立ち上る熱気に負けて、多少の寒さは我慢する事にする。
さすがに屋外に設置されているだけあって、想像したよりも幾分温めの湯に浸かると、ゆるゆると身体中から力が抜けて行く。
「すごいよなあ、雪があるぜ。」
だいぶ酔っているのか、珍しく赤い顔をしたフラガは湯船ギリギリまで積もった雪を触っては喜んでいた。
「…へえ、溶けないんですね。」
雪自体見る事が珍しいキラも、少しだけ興味を引かれた。恐る恐る手を伸ばして触れた細かな氷の粒は、キラの体温で水に変わって行く。身体は温かいのに、呼気が白く凍って行くのが面白くて、キラは小さく笑った。
「…機嫌直った?」
何時の間にか隣りに来たフラガにそう言われて、仕方ないですね、と言って苦笑した。
同時に、ふわりと甘い香りが漂う事に気付いてその元を探る。
「…それ、なんですか?」
丸い桶の上に並んだもの。フラガは楽しそうに手ぇ出してと言って、小さな器を差し出した。
「…なんですかこれ。」
手のひらに収まったそれに、いいからと言って透明な液体を注ぐと桶の中に一緒に入っていた腕時計を眺めた。
「カウントダウンだな。」
その言葉に思い出したようにキラも時計を覗き込む。
しんとした夜の静寂の中で三本の針が綺麗に重なると、新しい年が始まる。
「ハッピーニューイヤー。」
小さな器を軽く掲げてフラガが言うから、キラもそれに倣って手の中の器を軽く上げて笑みを浮かべる。
「…またよろしくお願いしますね。」
そうして二人で器の中身を煽る。
舌の上で柔らかな甘味と独特の辛さを持って広がる液体を流し込むと、喉の奥を流れ落ちる時に咽てしまった。考えなくとも分かる。
「…これッ、お酒ですか…!」
未成年ですよと咳き込んで途切れがちにそう言うと、フラガは楽しそうにたまにはいいだろと言って空になった自分の器に再びアルコールを満たしては空ける。
「だからって呑み過ぎですよ。」
涙目になりつつそう言って睨むと、不意に視界の端を白い欠片が横切った。
「…雪だな。」
上機嫌でそう言って高い夜空を見上げるフラガにつられて視線を上げると、細かな白い結晶が舞い降りては暖かな水面で消えて行く。
「…ほんとに、仕方ないですね。」
わざとなのか天然なのか、柔らかく繋いだ指先に少しだけ力を込めて。
少しくらい邪魔されても、こんな時間が過ごせるならそれでいいかもしれない。
少しだけ採ったアルコールの所為で幾分ふわふわした気分のまま、少し高い所にあるフラガの肩に頭を預けたまま、ただ静かに絶え間なく降りてくる雪の華を眺めていた。
短くも長い休暇はこれから始まる。
終
オマケ小噺
「後始末と仕返し」
ふざけるな、と唸るようにイザーくは呟く。
事もあろうに、たった一通の書置きを残して管理職の人間がいきなり二人もいなくなっていた。
その休暇届を、なんで自分のデスクに出して行くんだと言う疑問もあったけれど、あと二日で年が変わるこの時期に、よりにもよってアスランとディアッカが二人揃って休暇を取って地球に行ってしまったと言うことは、必然的に自分の仕事が増えると言う事で。
「…あのう…」
控え目に掛けられた声に振り向くと、見たことのある顔が二人並んで敬礼する。