唄う風
どこか遠い所から響くそれに、ゆっくりと瞼を押し上げた。何時の間にか眠っていたようだ。
微かに頭を起こすと、隣りで背もたれになっていた人はおはよう、と言って微笑う。
「…今の、音…なんですか…?」
何処かはっきりしない思考回路がはじき出した言葉に、フラガは軽く笑って、これから乾燥するっていう合図、と言った。
「良く寝てたなあ、ついでにあと十五分くらい寝てればイイのに。」
そう言いながらキラの肩を支えて最初に座った形に戻すと、既に終了していた洗濯機の中身を紙袋に詰め始めた。せめて畳んで下さいよ、と呟いて、変な形に固まっていた肩を解す。
仕事を終えた片方の洗濯機の中から無造作に出された衣類を簡単に畳んで、持って来たときよりも幾分余裕が出来た紙袋を車のリアシートに積んで、ついでに冷たい飲み物を買っていると、乾燥中だった洗濯機が動作終了を告げた。
少し強くなった陽射しに目を細めて、キラは空を仰ぐ。所々にぼんやりと浮かぶ雲が、ゆっくりと流れて行く。
「…もうすぐ、一年、か…」
帰ってきた、と言うわけではないから、正確には「戻って来て」一年。
小さく呟いて、イグニッションキーを廻す。エンジンが大気を震わせて始動する。低く響くその音を訊きながら、車内に篭った熱気を逃がす為に窓を明けて、オートになっていたエアコンを全開にした。止まっていたスピーカーからは、静かにジャズが流れはじめる。
「…ホント、似合わない…」
選曲はフラガが買ってきたディスク。それに対して何度目かの同じ感想を呟きながら、帰りのルートを検索していると、残った荷物を抱えてフラガが戻って来る。
「あっついなあ、今日は。」
スポーツカーに分類されるけれど、リアにもドアがある。荷物を放り込みながら呟いたフラガに苦笑しながら、買っておいたボトルを手渡した。
「もうじき、夏ですから。」
そう言いながら、この人には夏が似合うな、と不意に思った。
「…お祝い、しようか。」
唐突にそんな事を言うから、思わず凝視してしまう。
「…なんの、ですか…?」
その単語に唯一考えられそうな誕生日は過ぎてしまったし、他に何があるというのだろう。意味が判らなくて首を傾げながらそう言うと、とても楽しそうな笑顔が返ってきた。
「キラが、戻って来て一年のお祝い。」
不意打ちのようにそう言うから、固まってしまう。
全然、関心がなさそうな顔をして、この人は。
「…別に、いいですよ。」
記念にするような事でもないし、と続けるとフラガはまた笑う。
「良いんだよ、俺が勝手にやる事だから。キラは、そこにいてくれればイイの。」
さらりとそう言うから、聞いているこちらが恥ずかしくなってくる。
「…そうですか。」
微かに赤くなった顔を隠すように俯いてそれだけ呟く。
本当は、そう言ってくれた事がとても嬉しかった。だから、聞きたかった事はその時まで折角だから取っておこうと思う。
僕は、変わりましたか?
いつでも、いつまでも付いてまわる。否定と肯定と、一体どちらの答えを求めているのだろう。
煩いくらいに響く排気音を遮る様に、薄いフィルムが張られたウィンドウを閉めると、見計らったようにフラガは腕を伸ばした。
「手の届くところに居てくれるってのは、やっぱイイよな。」
とても近いところでそんな事を言うから、なに言ってんですかと反論しようとして。それが言葉になる前に、柔らかな口付けに塞がれた。
少し、遠回りしますね、とキラは言った。
折角天気が良いから、たまにはこうやってドライブを楽しんだってイイ。そう言ったのは自分だから、フラガは特に反対もせずに頷いた。
どちらかと言えば、キラはハンドルを握ると性格が変わる方だ。それでも、自分が隣にいる時はそんなに無茶はしないし、安定したハンドル捌きも感心するほど巧い。だからこそ運転を任せているし、安心して乗っていられる。ただし、普通の状態ならば。
何処まで行くつもりなのか、キラはハイウェイに乗った。
「遠回りしすぎじゃないのか?」
気持ち揶揄うようにそう言うと、キラは楽しそうに久し振りですから、と呟く。
「ハンドル握るの。最近、動かしてなかったから、たまにはエンジン全開にしておかないと劣化も早いですし。」
ゲートを通りすぎて、無音のナビゲーションを見る事もなくキラはアクセルを踏み込んで行く。危なげなく本線に合流したところで、放り出してあった携帯端末が着信を告げる。
「…出ないのか?」
その言葉にちらりと視線を動かしたキラは、運転中です、と少し困ったように返事をする。
「少佐、代わりに出て下さいよ。」
どうせあなたも知っている人ですから、と言ってキラはシフトノブを変えて、ギアをどんどん上げて行く。
ふうん、と気の抜けた返事をしながら画面を見ると、確かによく知ったキラの副官からだった。呼び出しを止めて返事をすると、何処か焦ったような声が流れ始める。
「…ああ、俺だ。どうした?」
フラガ教官も一緒ですか、と言う声がスピーカーから零れたのか、キラが小さく笑う。
けれど、彼が告げた言葉はとても可愛らしく笑い飛ばせるものではなく、焦る相手にちょっと待て、と言ってケーブルを繋ぎ、流れていた音楽を止めて通話に切り変える。
『お休みのところ、すみません。』
聞き慣れた声に、キラはどうしたの、とだけ答える。フラガがスピーカーに切り変えた事で、事態はただの定期連絡ではない事が解っている様だった。
『先ほど市街地で起こったテロの主犯グループが、車で逃走中です。ハイウェイに乗った事は分かったんですが、その先で見失ったと追跡部隊から連絡が…』
この車は、キラが所々暇を見つけて弄っている。当然すぐに連絡がつかなければ意味がない職業に就いているので、衛星を使って現在位置を確かめる事くらい造作もない。
「出入り口の封鎖は終ってるのか?」
その言葉に相手ははい、と返事をした。
『隣りの市まで封鎖完了しています。爆発物を持っているかも知れないので、場合に寄ってはあの部隊が出ますよ。』
苦笑混じりに呟く副官に、キラは困ったな、と言って小さく笑みを浮かべた。
「つまり、そこまで追い出せって事ですよね?」
ハイウェイは、当然だけれど簡単にその辺で降りる事は出来ない。ゲートを通らなければ、周りは遮音壁に囲まれているからだ。この道に入ってすぐに封鎖したのだとしたら、大した判断だとフラガは内心で追跡部隊を誉める。
「…逃走車の特徴とナンバー、それから一般車両の退避を。…仕方ないですよね?」
最後の言葉は多分、自分に向けられたものだろう。
それに苦笑で返すと、キラは片手でナビゲーション画面に触れる。どういうシステムを組んだのか、モニタの中は一瞬で広域から周辺二キロの地図に変わり、携帯端末のメールで受け取った目標の情報を同時に表示していた。
「少佐の電話、持ってたらそこのケーブルに繋いで下さいね。」
無線の変わりになりますから、と言いながら、キラは路肩に車を寄せる。