銀のスプーン
送ってくれた青年に礼を言って車を降りて、相変わらず真っ直ぐ歩かないフラガの手を引いて部屋に戻ると、オートで動く筈の空調が止まっていてひやりとした空気が通り過ぎて行く。不思議に思って玄関先にある空調のパネルを見ると、エラーの文字が点滅していた。
「…コレか、原因は…」
いくら滅多に帰らず、帰っても寝るだけの部屋になっていても、この季節に暖房なしでは風邪を引いて当たり前だ。取り敢えず後で自分の知識で出来うる限りの修理を施す事にして、リビングのソファに力尽きたように座っている人を寝室まで運ばなくてはならない。
「少佐、こっちで休んで下さい。今薬持ってきますから…ああ、着替えないとダメですよ。」
勝手知ったるなんとやら、でクローゼットに上着をしまってついでに新しいパジャマを引っ張り出す。洗濯してここにしまったのは自分なのだから、何が何処にあるのかくらい覚えている。
放って置くとそのまま毛布ごとベッドに潜り込みそうになるフラガを引き止めて着替えを渡し、リビングに引き返してグラスに水を汲んで、くしゃくしゃになった箱から小さな瓶を取り出した。白い錠剤が幾つか入っている。
それよりきちんと診察してもらった方がいい、と思い直して電話に向い、近くで時々お世話になる総合病院の顔見知りに往診を依頼する。電話口に出た隣室の婦人が愛想良く引き受けてくれたので、キラはエラーを表示し続ける空調のパネルの様子を見る事にした。
玄関先にある下駄箱の隅で丸くなっていた取り扱い説明書を引っ張り出して、パネルに表示されたエラー番号を探す。説明書の通りにボタンを押して初期状態に戻すと、改めて室内温度を設定し、暖かな空気の移動を確認して説明書を閉じた。
「…ほんと、物持ってないよね…」
元あった場所にそれを戻しながら、苦笑混じりに呟く。本来は靴が収まっている筈のその箱の中は、ほとんど空洞だった。軍人と言う職業柄、すぐに移動出来るよう持ち物は最低限にする癖がついているのだと本人は言っていたけれど。
「少し…寂しいかな。」
全く、と言う訳ではないけれど、異動がない訳でもなく。事情があってここから勤務地が動く事のないキラと違って、フラガはいつ他の基地に異動になるか分からない。
異動するくらいならばともかく、もし永遠に失ってしまうような事になったら。
その確率が、一般の人より高い所に自分達はいる。
暗い方に引き寄せられる思考を軽く頭を降って切り替えると、暖房が程よく効き始めたリビングへと戻って出したままだったグラスを片付け、ついでに冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出した。
「…なんか、食べるかな?」
少ない冷蔵庫の中身を確認して、後でなにか買いに行こう、と思った。
ぼんやりした世界は、揺れている。
飛びそうになる思考の中でかき集めた情報を纏めると、ここは自分の部屋で、確かにベッドに横になっている筈だった。
「…ヤな感じ、だよなあ…」
目を閉じていると、余計に世界が廻る。強いアルコールに酔っている時のように、頭の奥がくらくらして気分が悪い。
こつり、と言う音がして薄く目を開けると、濃紫の瞳が覗いていた。大丈夫ですか、と言ったキラに苦笑を返して。
「…多分な。」
それが強がりだと分かっているのか、キラは緩く笑って嘘ばっかり、と言った。
「ここに水、おいときます。それとこの後無理言って往診して貰いますから。」
大人しくしてて下さいね、と続けて屈んでいた身体を起こした。それを視線で追うと、少し考え込んだキラは再び覗き込むように屈んで不意に笑う。
「…ここにいて欲しいですか?」
時々、本当に鋭い。
そう思ってしまう事事体自分でも不思議だったけれど、結局素直に頷くのも癪だったから別に、と言って毛布を被った。そもそも珍しく熱を出したくらいで大袈裟だ。
子供じみた思考すらお見通しなのか、小さく笑う声が毛布越しに聞こえた。と、思うとほんの少しそれを捲った冷たい指先が、熱で火照った頬に触れる。
居てあげますよ、とキラは言う。
「…ほんとは、良く知ってます。」
具合の悪い時は、八割の確率で寂しくなるんですよと続けて。
それが妙に優しいから変だ、なんて哀しい感想を持ちながら、好きにすればいいとフラガは応える。
「…お前、ほんとは面白いだろ。」
半目で睨んでそう言うと、誤魔化すように笑って。
「…それもあります。」
さらりと、笑顔でキラはそう言った。
ちょっと遊び過ぎたかな、と思った。
毛布を頭まで被って大人しくなったフラガを見て苦笑を零し、ベッドに背中を預けてカーペットの上に足を伸ばす。
必然的に上げた視線の先は、薄く雲の掛かった冬の空。時折小鳥が空を滑り、巻き上げられた枯れ葉が通り抜ける。後幾日かが過ぎれば新しい年が始まる、そんな季節だ。
「よりにもよって、ねぇ…」
なにもこんなタイミングで風邪ひかなくても、と思うと間が悪いのかこの人らしいのか分からない。恐らく、後者なんだろうとも思うけれど。
幾分荒い呼吸の音が微かに聞こえてきて、フラガが眠ってしまった事に気付く。このままでは息苦しいだろうと思って少しだけ顔に掛かった毛布を避けて、静かに立ち上がった。
部屋のドアを半開きにして、買い物に出るべきかどうか悩んでいるとタイミング良く控え目な電子音が響く。リビングの片隅に置かれた受話器を取ると、隣室の婦人が医師の都合が着かず往診が夜になる事を告げた。無理を言っているのはこちらだからと応えて、やはり先に買い物に出るべきだと判断する。
そっと覗き込んだ部屋の中に変化はなく、コートを羽織って出掛けようとして自分が制服のままだった事に気付いた。それすら意識の外に出ていたということは、自分が思ったよりも相当心配していたのだと言う事になる。軽く溜息を吐いてゲストルームの扉を開けると、冷えた空気が頬を撫でた。普段は空き部屋のようになっているこの部屋は、ゲストルームと言ってもキラ以外の人間が使う事はほとんどない。必要最低限の家具と、こういう事態を考えて置いてある幾つかの衣類と生活必需品。廃品を利用して組立てたデスクトップマシンだけが、奇妙さを醸し出している。
壁に設置された空調のスイッチを入れて、中身の少ないクローゼットを開ける。ジーンズとセーターを引っ張り出して着替え、皺にならないように制服をハンガーに掛けた。
冷蔵庫の中身を思い出しながらコートに袖を通して、小銭入れとクレジットカードをポケットに押し込む。消化が良くて栄養価が高い、胃腸に優しいもの、と考えるとおよそ自分には縁のない本でしか知らないメニューばかり思い出す。
コーディネイターであるキラにとって、寝込むほどの病気は縁遠い。風邪を引いてもそれほど重症になる事もなく、まして病人食なんて小さい頃に母親が作ってくれたものしか食べた事もない。
「記憶が遠すぎる…」
玄関のロックがきちんと掛かった事を確認して、遠い記憶を反芻するように部屋を出た。向かう先はいつものショッピングセンター。食材を買うついでに、少しレシピでも覗いて見ようと北風が吹きすさぶ道を歩き出した。
扉の閉まる音がして、薄く目を開ける。