銀のスプーン
大人は素直になれない。子供ほど簡単に、寂しいとか心細いとか弱音を吐き出す事が出来ない。時々損をしている、と思うけれど、大人のプライドと言うやつが邪魔をするから多分、仕方ない。そう思いつつ結構損をしている大人は多いんだろうな、とフラガは小さく苦笑を零した。
重い腕を伸ばして、ベッドサイドに置かれたペットボトルに手を伸ばす。ひんやりとした液体を乾いて張り付いた喉にゆっくりと流し込むと、緩く溜息を吐いた。
「…まあ、こんな事もあるよな。」
思えば、キラが熱を出した事なんて多分、一度きり。まだ戦争をしていて、無理を重ねた末に倒れた今よりもほんの少し幼い少年。あの時はひっきりなしに誰かがいて、傍に居たくとも叶わなかった。なにより、たった二人しか居ないパイロットの内の一人が欠けたのだから、当時のフラガにのし掛かった責任はとても重くて。
寂しい、と思ったのだろうか。今の自分のように。
そもそもキラはコーディネイターなのだから、そう簡単に体調を崩す事もない。だからこそ、自分よりも珍しく寝込んだりした時は、その頻度に応じてより大きな心細さを感じるのかも知れない。
風邪だって拗らせれば命を落とす。
生き物は本能で命の終りを恐れている。だから、怖い。誰かに助けて欲しいと縋る。
「カッコ悪…」
キラが戻るまで、もう少し。
寝返りを打って目を閉じる。相変わらず揺れる世界に、微かに眉を顰めて。
そうやって、情けない感情を閉じ込めて。
トマトの缶詰が目に付いた。
まだ夕食の仕度には早い時間とは言え、そこそこの混雑ぶりを見せる食品売り場に入った途端、堆く見事な缶詰ピラミッドが形成されている。黄色い札には特売品の文字が踊り、その通りに破格値が表示されていた。
「…トマト、か…」
冬場の生トマトはあまり美味しくない。温室で無理に色付かせてはいるけれど、ぼそぼそとしていてとにかくトマト本来のみずみずしさに欠けている。必然的にこの時期は缶詰を使う事が多くなり、なおかつそれほど高価い訳でもない。
缶詰の山を見ていて思い浮かんだメニューは、簡単だけれど野菜がたっぷり入っていて栄養価も高いしなにより温かい。一人で納得したように頷いて、カートの中に缶詰をひとつ入れた。
このスーパーは二十四時間営業している。元より、このショッピングセンター事体、一番早く閉める店ですら深夜に近い時間。そのくらいならば同じ基地に勤務する独身の若い兵士も出入りしているけれど、この時間はかなりの勢いでキラの存在は浮いている。最初こそ引いていたものの、一年以上通えば慣れた。多少不本意だったけれど、歳に見合わない見掛けの所為でせいぜいお使い、くらいにしかまわりも思ってくれない。主婦と子供の間を縫いながらカートを押して歩き、必要な物を次々と手際良く入れて行く。二、三日中に使い切れる量で不必要なものは手に取らないのがコツだ。
「…今更だけど、主婦っぽいなあ…」
売り場の所々で通路を塞いで立ち話をする主婦を横目で眺めながら溜息を吐いた。
会計を済ませてスーパーを出ると、ほとんど癖のようになっている馴染みの洋菓子店に足を向けた。暇があれば手作りだけれど、大抵はこの店で調達している。甘党のキラは勿論、あまり進んで甘い物を口にすることのないフラガもこの店の菓子は気に入っているようだ。
クリスマスを過ぎて幾分落ち着きを取り戻したその店のガラス戸を開けると、顔馴染みの店員が愛想良くいらっしゃい、と言った。それに笑みを返しながら、小さなケースに入ったクッキーと、箱詰めされたフィナンシェを持ってガラスケースに近付く。中に並んだ可愛らしいケーキを眺めて、一つに目を留めた。
「あれ、この時期にゼリーですか?」
夏場は幾つか見かけるゼリーも、この時期はあまりお目に掛からない。需要が少ないから当然なのだろうけれど。
「それね、一週間限定で作ってるの。毎年この時期だけ、年内いっぱい。」
常連さんしか知らないのよ、と店員は笑顔で言った。つまりまだ通い足りないと言う事だろうか。
「上はゼリーだけど、下はムースよ。カップの所為で見えないだけ。」
赤ワインのゼリー、その下にはチーズと苺のムースが交互に重なっているのだと説明してくれた。絞ったクリームの上には、チョコレートの小さなプレートと彩りの緑色の葉が乗っている。器も小ぶりの真っ白いマグカップ。
「…可愛いですね。」
素直に感想を述べると、店員はお奨めよ、と続けた。
「いつも夕方まで残らないの。まだ早いから、ラッキーかな?」
くすくすと笑いながら語る店員は、どう見ても自分と幾つも変わらない若い女性だ。それなのに、口調が何処となく子供に対しているように聞こえる。それもまた仕方がない。
「じゃあ、これふたつ下さい。」
持っていた焼き菓子と共に注文すると、彼女は笑顔で頷いた。そうして手際良くラッピングして、最後に小さな包みを見せてこれはサービス、と言った。
「今年もご贔屓にして頂いて有り難うございます。」
また来年もよろしく、と続けた店員に軽く頭を下げて店を出る。夕食の仕度に混み合い始めたショッピングセンターを通り抜けてマンションへの道を辿りながら、思わぬプレゼントになんだか少しだけ心が温かくなった。
ぼんやりと覚醒すると、日の落ちた薄暗い室内が視界に映る。眠った所為か幾分すっきりしたような気がした。リビングからは控え目なジャズが聞こえてきて、恐らくキッチンにいるであろう音がする。
どのくらい惰眠を貪っていたのかは分からない。ベッドサイドにあったペットボトルの中身が随分少ない事を確認すると、何度か目を覚ました、らしい。
インターフォンの音がして、キラが廊下を走って行く。
宅配便か、と思いながらもう少し寝なおそうと態勢を変えた所で不意に思い出した。病院に行くのが面倒だと言ったら、キラは往診を頼んだ、と言ったのではなかっただろうか。
「…本気だったのか…」
まさか風邪ぐらいで病院に行く、とは思わない自分にとって、医者をわざわざ呼ぶほどのことなのか。乾いた笑いを微かに零した。
元々、あまり医者が好きではない。病院も、健康診断か誰かの見舞いにくらいしか行ったことがないフラガにとって、ある意味病院と言う存在自体未知の領域に当る。艦の中や前線での軍医はともかく、記憶にある限り最初に出会った医者に良い記憶がないから医者は好きじゃない、と言う結論に達したのは随分と前の話だ。それが十数年経った今でも多大なる影響を残しているのだから、当時の意思もその性格からして多いに満足しているに違いない。
そんなことを思いながら目の前に表れた老医師に引き攣った笑みを浮かべた。熱の所為で上手く働かない頭は、全くロクな事を思い出さない。
「…それじゃあよろしくお願いします。」
相変わらずフラガの希望を裏切って短いカフェエプロンを片手にキラは柔らかく言い残して部屋を出て行く。残されたのは隣室の婦人とかくしゃくとした老人と自分だけだ。
「あら、本当に珍しいですねぇ?」